俺の調べ学習

素人がGoogleと図書館を使って調べます。水上に千年住んでる人。

織田信孝の妻 鈴与姫について

神戸友盛の娘(一説には高野可夕からの養女)、織田信孝の妻について。

勢州軍記には詳しく書かれていませんが、神戸良政(能房)が編纂した『伊勢記』、そして良政の近しい人が書いたのではないかと考えられる長覚寺の北畠源氏系図には彼女に関する記述があります。

 

まず、伊勢記における鈴与姫の登場箇所を見ましょう。

(私の誤読がある可能性あります。ご容赦を)

同月信長使神戸友盛押而為隠居

神戸蔵人友盛元関盛信男一利有養子契約而信長使三七為嗣故関与神戸不喜願変政

信長聞憤之神戸夫婦為年始祝儀到江州日野時信長押之使為隠居被預蒲生賢秀

神戸侍佃又右衛門尉等僅奉友盛

使三七為友盛聟嗣神戸信長使友盛女竹子嫁三七九歳也祝言三七嗣家督此時……

 

 私のてきとーな訳

神戸友盛と関盛信は盛信の息子一利(勝蔵)を神戸家の婿養子にする約束をしていたために、信長の息子三七が神戸家にやってきたことはうれしく思っていなかった。

信長はこのことを聞いて怒って神戸夫妻が妻の実家へ正月の挨拶に出向いたときに幽閉し無理に隠居させてしまった。わずかな人数の神戸侍が友盛のそばにいるだけになった。

信長はこの時、友盛の九歳の娘竹子を三七に嫁がせ、神戸家の家督を継がせた。

 

ちょっと現代語訳はテキトーであやしいですけれど(*´Д`)

 

名前が「鈴与姫」ではなく「竹子」なのが少しびっくりでした。鈴与というのは別名だったのか通称だったのか? そこのところよくわからないのです。

長覚寺の系図でも鈴与ではなく「竹子」と記されています。

また九歳という年齢もせつないですね。数え年ですから、実際は七歳とか八歳ですよね。

そんな小さな子が両親と引き離され突然結婚することになったというのは心細かったのではないでしょうか。

 

次に鈴与姫(竹子)が登場するシーンは天正九年、信孝に長女が生まれ、生母は神戸友盛女であるという記述です。結婚から約十年後、竹子は十八歳くらいでしょうか。(寛政諸家譜などでは信孝と友盛女の間には子がいないんですけどね)

この記述と並べるかのように、同年に信忠の嫡男、信雄の嫡男が生まれたことも書かれているのですが、、、、どうも信ぴょう性が。というのも信忠嫡男の生母を武田信玄女としているんですね。それと、信雄の息子って天正九年生まれでしたっけ?

(*´Д`)うーん、伊勢記の記述、どこまで信じていいの?

そして、悲しい話なのですが。

伊勢記において竹子が生んだというその女の子は後に人質に出され、三歳で命を落としています……。

 

さてさて、話を鈴与姫に戻しまして。

彼女が最後に伊勢記に登場する箇所を見ましょう。

(誤読の可能性あります)

……此時神戸蔵人友盛守沢城蒲生氏郷理之和之云我病者也全對信雄無逆意由訴秀吉依之信雄秀吉相計以林与五郎氏族十蔵為婿給沢城也可給神戸故岐阜ゟ侍隠居領知元共進逆心云云依盗信孝北方落来云云■■此息女乃信孝朝臣北方也又国府次郎四郎等同属信雄云云各蒲生氏郷相計云云

 ■部分は判読できなかった部分です。「母娘」と読めるような気もするのですが、つぶれちゃっててよくわかりませんでした。

 そしてこの引用箇所のすぐあと、信孝自害の記事の中にも「信孝北方」が出てきます。

 信孝の重要な家臣が討ち死にしたり、さらに家来が次々と去って行き、最終的に信孝は自害することになるという話の流れで、神戸侍にも裏切られた話も出てくるのです。↓

加之信孝士卒美濃伊豫両国諸侍聞柴田滅亡悉退散神戸侍四百八十騎衆又一味同心去岐阜城来伊勢州此時神戸侍共相伴信孝北方而来神戸云云

 

  信孝について岐阜城で戦っていた神戸侍たちは、とうとう信孝に「逆心」してみんなで伊勢に帰ってきたのです。そのとき、信孝の妻も一緒に連れ帰ってきたようです。

 伊勢記では帰ってきた神戸侍たちの名を列記し、「信雄秀吉以内意■神戸友盛和談友盛並林以内意落来云云」と書いています。(■は読めなかった字。たぶん、ゟという字かな、と思います)

 これら伊勢記にある記述から解釈すると、信孝に仕えていた神戸侍たちは友盛が信雄秀吉と和睦したという連絡を受けて信孝を捨てて伊勢に帰る決心をし、鈴与姫も一緒に連れ帰ったという話なのでしょう。

 ただ、ひっかかる記述があります。

 依盗信孝北方落来

 

これは、信孝から妻を盗んで来た

 

という解釈でいいんでしょうか?

 

だとしたら、鈴与姫の意に反して夫から引き離したということでしょうか?

鈴与姫は最後まで夫といたかったのか、それとも父の元へ帰りたがっていたのか、彼女本人にしかわかりません。

あくまで、わたしの妄想ですが、神戸侍たちは友盛から「どうか娘を助けてほしい」という密命をうけていたのではないかと思うのです。だからこそ強い決意で伊勢まで帰ってきたのではないでしょうか?

 

 

さて、父の元に帰ってきた鈴与姫は林与五郎の嫡男、十蔵と再婚します。伊勢記では彼女に関する記述はここで終わっていますが、長覚寺の系図を見るとこの後も波乱万丈な人生が記されています。(東京大学史料編纂所のサイトで閲覧できます)

 

系図によると、再婚相手の十蔵も間もなく戦死し、鈴与姫は再々婚します。

その相手はなんと、かつての許婚だった関家の息子、関勝蔵(一利、盛吉)です。


 関勝蔵についても少し調べたのですが、鈴与姫(竹子)を妻にしたという傍証は見つけられませんでした。あくまで想像ですが、勝蔵の方も初婚ではなく、鈴与は後妻かもしくは側室として嫁いだのかもしれません。

系図を見ると勝蔵の子孫に「神戸」を名乗っている者が何人かいました。

もしかしたら、その人たちが鈴与姫の血を受け継いでいる孫か曾孫なのかもしれません。本当のところはどうかわかりません。

が、関勝蔵は蒲生家に仕えた人なんですね。

そして伊勢記の著者神戸能房の父・高島政房も蒲生家に仕えていた、しかも親戚同士です。

家同士交流があって、鈴与姫も昔話を語ったりしていたのではないでしょうか?

そういった関係があったのなら、高島政房が「神戸」の名を継いだことも納得いきます。

 

神戸良政は勢州軍記の序文で、「父の書き残したものをもとにして検討した」と言っています。

鈴与姫の話も父・政房が彼女から聞いた話を書き残したものがベースになっているかもしれません。

(あくまで、わたしの妄想ですけどね('ω')

 

 

…なんとなくですけど、本当に素人の浅い考察にすぎないんですけど、


『伊勢記』と長覚寺の系図にある鈴与姫(竹子)に関する記述は信憑性が高いんじゃないかなぁ、と思います。

本名も年齢も記されていない千代御前(信雄妻)に比べて、鈴与姫の経歴は年齢、竹子という名、再婚後に生んだ子どもの事などなど具体的なんですよね。

これは著者や著者の父の近いところに鈴与姫(もしくは鈴与姫の関係者)がいたためではないでしょうか?


 

 ☆神戸能房編『伊勢記』については、勢田道生さんの論文が詳しいです。私は勢田さんの論文を読んで『伊勢記』と長覚寺の北畠源氏系図の存在を知ることができました。