2018年、新史料発見!と一部SNSで注目された「北畠中将」宛の足利義昭の御内書。
日付けは9月9日で、鞆浦にいる義昭から「毛利と協力して帰洛できるようにしてほしい」と。
宛先の「北畠中将」は誰か?
これは北畠具房のことであり、この御内書が天正4年11月の三瀬の変を引き起こしたのではないか?と推察された。
「新発見」と一部報道でもあったが、内容の翻刻は以前から公開されていたもの。
改定史籍集覧第27冊 第百五 和簡礼経 p506〜507にある。
なんでかよくわからん。
たぶん、和簡礼経に収録されていたものは写しで、2018年に報道されたのは原本が見つかったということだろうか。
あらためて「北畠中将」とは誰なのか、ちょっと考えてみた(妄想してみた)。
「北畠中将」と呼べる人は
北畠具房、北畠信雄、木造具政、大河内具良。
この中の誰か。義昭と近しくしていたであろう人物…
私の妄想では、その人は大河内具良。
義昭の子を産んだ「小宰相局」は大河内氏の娘だと伝わっている。具良の娘なのかは不明だが、親族なのだろう。
(大日本史料第10篇之10 p64 年代記抄節 八月十五日、武家若君御誕生、御母小宰相局、伊勢大河内女也)
兼見卿記には 「武家御所若公御誕生、御局也、自伊勢上洛、禁中伊予殿御局御参也」とある。
奥野高広氏によると、この女性が御所の伊予局の跡目として上京してきたのを将軍義昭が懇望したのだろうと。
元亀3年8月15日に小宰相局は出産。その数ヶ月前の元亀3年正月13日、大河内具良は左少将に昇進している。
さらに翌年の元亀4年2月12日、大河内具良、「左中将」に。北畠中将だ。
なんていうか、スピード昇進。
これは大河内具良が小宰相局を介して義昭と接近していたからでは…?
なぜ、義昭に接近したか。北畠家中において木造氏に対抗するためだったのではないか?
同じ北畠一門の坂内氏の元服したばかりの子息、坂内顕昌も元亀3年3月14日に従五位下。(御湯殿上日記より)
想像をたくましくすると、大河内氏と坂内氏は北畠家中において同じ派閥に属しており、大河内氏のフォローがあって坂内顕昌は従五位下に叙せられたのではないか…?
天正4年、大河内氏と坂内氏は三瀬の変で粛清された。
後ろ盾であった義昭の凋落によって北畠家中における勢力争いに敗れた結果ではなかろうか…。
そして、勢力争いに勝ち、北畠家中にて信雄の家臣として主導権を握るようになったのは木造氏だった。
大河内氏の成立は、その昔、木造氏を抑えるため北畠顕雅が分家し大河内城主になったのが始まりだという説がある。(寛永諸家系図伝、北畠系図など)
この説をとるならば、長い時代を経て、大河内氏の滅亡をもって両氏の争いは決着がついたともいえる……
……まぁ、都合のいい状況証拠を集めて妄想しただけですが。私は陰謀論をすぐ信じちゃうタイプなので。
木造氏が北畠家中でどこまで力を持っていたのか、他の人たちの昇進の状況とか、もっと調べなきゃダメだろ…と思う。