千代御前が三瀬の変で亡くなったとする史料が『北畠御所討死法名』以外にもあったので紹介します。
『多芸録』
図書館で写本を見てきました。
いつ頃書かれたものなのかわからないんですが…
多分、江戸中期以降かな?て思います。
信雄が寛永7年に亡くなった事を記述しているので、寛永7年以降に書かれたのは確実です…多分。
勢州軍記に構成が似てるなぁと思うところもあるので、もしかしたら勢州軍記を参考にしながら書かれたものかもしれない…多分。
多分を繰り返しているのは自信がないからです、はい。
この多芸録にもやはり「雪姫」の文字はなく、「千代前」とありました。「千代御前」のことですよね。
では、千代御前が出てくる箇所を引用します。
亦若于人此日殺夫人千代前法諡日蓮照院殿妙元大姉
よ、読めない。いや、読める気がするけど自信ない。
頑張って読んでみると…↓
また、ある人が言うには、この日千代御前も殺された。法名は蓮照院殿妙元大姉。
正解?正解?…違うよね…
なんか、違う気がする…。
学生時代もっと漢文の勉強しときゃよかった(T-T)
うー、わからん。
とりあえず、父具教と同じ日に殺されたと書いてあるということはわかります。
『北畠御所討死法名』では三日後の二十八日としていたのとは違います。
この多芸録は勢州軍記を参考にしたんではないかと言いましたが、では勢州軍記は千代御前の事をどう記述しているかというと…
信雄と結婚したということ以外、記述がないんです。
三瀬の変での千代御前の動向も一切記述がありません。
勢州軍記の著者神戸良政(能房)は彼の父親が書き遺したものをベースに
地元の古老たちに聞き取り調査をしたり諸家に伝わる書物を取材して執筆したそうです。
勢州軍記では千代御前に関する記述はほとんどありませんが、神戸良政は後に伊勢記を編纂し、信雄室は天正十九年に伊予で亡くなったと記しています。つまり、三瀬の変の後も千代御前は生きていたんです。
追記 H30.5.19
「北畠御所討死法名」について
具教の三十三回忌を子孫がとりおこなった際に書かれたもの
と書きましたが、違うんじゃないかなと思うようになりました。
三十三回忌の時ではなく、もっと後の時代、江戸中期以降に書かれたのではないかと思います。
そもそも三十三回忌の法要そのもの自体なかったんじゃないかと疑っています。
「北畠御所討死法名」は史料として信憑性はあるのか…?
また詳しく調べたいのですが、忙しくて…
調べたらまたブログに書きます
▲追記その2▲
多藝録の著者は幕末の学者沢熊山らしいということがわかりました。