俺の調べ学習

素人がGoogleと図書館を使って調べます。しょせんは素人の戯言なので信用しないでください。水上に千年住んでる人。

織田信雄の継室について

織田信雄正室は北畠具教の息女(雪姫、千代御前)だ。

系図などの記録上では、文禄元年(1592年)に亡くなっている。

正室が亡くなった後、信雄の継室は誰がなったのだろうか。

Wikipediaなどネットを見ると、継室は木造具政息女だとしている。(木造具政は北畠具教の弟)

寛政重脩諸家譜の木造系図は信雄に嫁いだ木造具政息女のことは記さない。

が、同書の織田系図は信雄の経歴のところに

「室は北畠中納言具教が女、卒す。継室は木造中将具政が女。」と記している。

他には↓

続群書類従所収の北畠系図
「女子織田信雄
織田兵部大輔信良母」とだけ記す。

旧小津清左衛門家所蔵の「木造記」の系図には

「女子織田信雄側室 織田兵部大輔信良ノ母」とある。

 

系図によって、「妾」だったり「側室」だったりと統一感がないが、当初は側室(あるいは別妻)の立場だったが、正室の死後に継室になったと思われる。

丹波柏原の織田家譜(織田信親差出 幕末〜明治の作成?)では天正五年頃の説明に「室具教之女卒以故娶木造左中将具政之女」

とし、正室の死後に嫁いだとするが、同書は天正11年生まれの秀雄の母を「北畠具教女」と記し、矛盾している。

正室の生前に信雄に嫁ぎ、文禄元年に正室が亡くなった後に継室となったと考えるのが自然だろう。

 

彼女について知る手がかりはないだろうか。

 

木造具政息女が生んだのは織田信良。

信良について調べたら、母である具政息女について何かわかるかもしれない。

 

寛政重脩諸家譜の織田系図によれば信良は

天正十二年伊勢国に生る」

天童藩(※元の上野小幡藩の藩祖は信良)に伝わる系図(御代々様御連枝様方御事跡)によると、

天正十三年乙酉年勢州大河内於御城御誕生、御母木造左中将具政卿女」

天童藩の伝える没年齢は四十二歳。

寛永諸家系図伝織田系図、柏原藩の家譜では四十三歳。

寛永諸家系図伝でも生まれは伊勢国

一歳のずれがあるが、どの系図伊勢国生まれ。

ちょっと疑問なのは場所が大河内城ということ。大河内城はとっくに廃城になっているはずなので、長嶋河内の誤伝かもしれない。

ともかく、一歳のずれがあることに私は注目している。

 

天正12年生まれならば、小牧長久手の戦いの真っ最中に出産したことになり、13年生まれならば、和睦後に出産した可能性が高い。

どちらであっても伊勢国(おそらく信雄の居城長嶋城)。

 

そして、次に紹介する史料が私はとっっても気になっている。

推定天正13年、秀吉から弟秀長に宛てた書状(豊臣秀吉文書集八p45)。

内容は、「信雄が大坂に行く。信雄の“女房衆以下”も近いうちに行くから、秀長の屋敷で預かってほしい。」というもの。

女房衆以下とは、信雄の妻とその侍女たちのことだろう。

(この時代の史料における「女房衆」とは正妻を指す場合とその家に仕える女性たちを指す場合がある。この史料は「以下」とついているから「女房衆」は正妻の意だと思う)

 

この信雄の妻は誰のことを指すか。信雄と共に大坂に行き、おそらく暫く滞在したであろう女性。

天正13年に伊勢国で信良を出産していたとすると、木造具政息女は大坂には行っていないだろう。

だとすると、信雄と共に大坂に出向いたのは正室・北畠具教息女だと考えられる。

 

 

木造具政息女について、頑張って調べたけれど、私はこれ以上の情報を見つけることができなかった。生没年も、信雄に嫁いだ正確な時期も、法名も、本当に継室になったのかどうかもわからない。

ちなみに、天童藩系図や家譜は信雄の継室について何も記していない。

 

さて、信雄の継室だと伝わる女性はもう一人いる

 

信長の弟・津田長利(又十郎)の息女である。

津田長利は天正10年本能寺の変の時、討死した。

天正11年〜13年作成の織田信雄分限帳には長利の妻であろう女性が記載されている。この女性が母だろうか。

織田家雑録によると、長利息女は信雄の継室であり「本丸殿」と呼ばれていたらしい。法名は瑞雲院殿華岩貞春大姉。

(参考 渡辺江美子氏「甘棠院殿桂林夫人―豊臣秀吉養女小姫君―」)

(※私自身は織田家雑録の全文はまだ読めていません…)

津田長利息女についても知る術がないのだが、彼女が生んだ息子の行く先を調べたら何かわかるかもしれない。

継室といえば正室も同然であり、生んだ子は重要視され、後継扱いされてたはずである。

津田長利息女の生んだ信為と良雄はというと、信雄の後を継いでいない。

信雄の所領であった宇陀松山を継いだのは高長(母は信雄家臣久保氏の息女)である。

 

(もうひとつの所領、小幡は信良の子信昌が継いだ)

丹波柏原の家譜(東京大学史料編纂所 織田信親差出)によれば、信為は寛文6年10月に亡くなり、大和の起雲寺に葬られ、法名慈光院天厳高友。同母弟である良雄は慶安4年2月に亡くなり、同じく起雲寺、法名は瑞岩院花林作塵。残念ながら二人とも年齢はわからない。

信為の子は「津田」を称し、宇陀松山藩に仕える。

ちなみに、信為の母・津田長利息女は「家女」と記されている。「家女」とは、おそらく「家女房」の意味だろう。

 

ということは、津田長利息女が継室であるのは誤伝なのだろうか…と思いきや…

 

織田盛衰記によると、津田又十郎女の息子・津田伊予守(=信為)を「御嫡」とし、宇陀松山を継ぐはずだったが「御心短慮」であるために、高長が継いだとしている。 

Wikipediaでは信為について、元々は岩清水寺の住職」と記すが、誤りだと思う。織田盛衰記や柏原藩織田家臣系譜によれば高長に後継を譲った後に大和の岩清水村に隠居したというのが正しいようだ)

 

 

 

木造具政の息女、津田長利の息女。

どちらが継室だったかは私には判断がつかない。

正室・北畠具教息女が亡くなったのは文禄元年。その後、どちらが継室になったのか。

 

織田家雑録や織田盛衰記を信じるならば、津田長利の息女が継室だったのだろうが、具政息女は北畠晴具の孫娘かつ信雄の重臣木造氏の娘であり、血筋の良さから見て継室にふさわしい気もする。

 

…うん。わからない。どちらが継室だったのか。

何か新しく史料が発見されたらいいのに。

今のところ、私にはわからん。

 

追記

Xの相互フォロワーさんと信雄の継室についてやりとりする中で考えるヒントを頂きました。

ありがとうございました。