雪姫(千代御前)の記事で
史料「北畠御所討死法名」は三瀬の変から33年経た慶長十三年に書かれたものであると紹介しましたが、
http://sukoyaka1868.hatenadiary.jp/entry/2018/01/08/103901
私の早合点でした。すみません。
『三重県史 資料編』の目次見ると、他の史料は年代書いてあるのに、北畠御所討死法名は
ひとつだけ年代書いてないんですよね。
三重県史を編纂する専門家の先生方は年代不明であると判断したってことですよね。
早合点した自分がちょっと恥ずかしい。
(三重県史資料編には『大日本史料第一一編之一』から引用して抜粋が載っています。
全文は『北畠氏の哀史』p54〜p62、また大西源一著『北畠氏の研究』の巻末に載ってます。鈴木弥一郎氏が所蔵していたものらしい。)
※大日本史料確認したら載ってなかった…なんでや(・・;)…私が見逃してる可能性もあるのでまた図書館に行ったら見てみます
また、梅原三千『多芸志略』(斉藤家所蔵の書を梅原が写本したものを掲載)に
とあり、写しが掲載されています。
『国司記略』にある「法名帳」とはこの天正中北畠陣没法名帳のことでしょう。
内容は『北畠氏の哀史』『北畠氏の研究』の「北畠御所討死法名」とほぼ一致しています。
ただし、最後の鈴木孫兵衛家次、北畠長十郎らの名は斉藤家所蔵の法名帳にはありません。
達筆すぎてわかりにくかったのですが、梅原先生の補記ちょっと載せておきます。
前に載せたる所の諸士集及び二本分限張と互いに異同あるを以て今是を志るして参考に□□故に敢て□□を厭はすして全く志るす左の如し
□の部分は私が読めなかった部分です(^_^;)
斉藤家所蔵の北畠の諸士集と家臣が載ってる分限張二つの写本と内容が違う部分あるけど参考にしてもらいたいからあえて全部そのまま載せておくね、ていうことですかね。
あと、斉藤家バージョンは慶長十二年になってるのも気になる。単なる誤写かな。
さて、「北畠御所討死法名」について疑問に思う点をあげていきます。
素人の私が気づくくらいなので偉大な先達、斎藤拙堂先生も気づいていた部分もあるのですが…
★坂内具信と鈴木家次について
まず、斎藤拙堂も『伊勢国司記略』の中で指摘している部分をひとつ見ましょう。
坂内家系図にある坂内具信についてこう書いています。
北畠物語にいへる萬輔入道の事也。法名帳に萬輔が名を具房に作れり
また本文にこう書いています。
按ずるに、法名帳に従四位下左中将右近将監具房、天正四年十一月二十五日於坂内討死、圓徳院通山満浦大居士とあり。官位法号ともに具信の事なるべきに具房とあり。
(中略)
具此頃の国司大腹御所の名具房なるに、一家に同名付るいはれなし。思ふに満浦の名具信なるをしらざるまゝ推量して塡めたることはしられたり。
そう、「北畠御所討死法名」に
四位左中将坂内御所 右近将監具房
天正四 十一月廿六日当國坂内ニテ討死
圓徳院通山満浦大居士 四十七才
とあるのです。
具教の息子・北畠具房のことではなく、坂内具信(萬輔)のことだと拙堂は指摘しています。。
この法名帳は坂内兵庫頭具義の名もありますが〝具房嫡男〟と記しています。
北畠具房は坂内具義の父ではありません。系図では具義の父は具信となっています。
やはり具信(萬輔)の名を誤って〝具房〟と記したのでしょう。
(具信の父であろうとされる坂内具祐の元の名が〝具房〟だったので間違ったのだと思います。)
坂内具信(萬輔)は三瀬の変の時、家臣に裏切られ殺害されたと勢州軍記や北畠物語にもあります。
※三重県郷土資料叢書 第39集
『勢州軍記』
を見ると、信雄が三瀬の変を企てるくだりで「坂内入道父子」が出てきます。
脚注を見ると
「坂内右近将監具房・兵庫頭具義父子(北畠家臣帳)」
とあります。
しかし、坂内御所のくだりでは
具信であるという脚注になっています。
北畠家臣帳にある坂内具房というのは北畠御所討死法名と同じように誤伝で、註釈者がそのまま脚注に書いてしまったのではないかと思います。
※Wikipediaの三瀬の変の項目でも坂内具〝房〟になってる…
三重県郷土資料叢書の勢州軍記の註釈を参考にウィキペディア編集したのかもしれません。
坂内具信の内室についても「北畠御所討死法名」は記しています。(内室の事は拙堂は触れていませんが)
〝具房ノ内室則具家母公天正四歳十二月四日当國津留ニ於テ病死ス
鈴木氏小弁水照院妙見大姉〟
『美杉村のはなし』の鈴木具家の母、小辨御前とはこの人のことでしょう。“具房”とあるのは具信の間違いで坂内具信の内室のことを指しているのだと思います。
※鈴木具家と小辨御前についてはこちらの鳥屋尾石見守の記事を見てください↓
http://sukoyaka1868.hatenadiary.jp/entry/2018/05/24/183108
しかし、『美杉村のはなし』では彼女は坂内具信の妻ではなく、北畠具教の内室となっています。
『美杉村のはなし』は地元の伝承をまとめて物語風にした本です。
坂内具信の内室であったのに、北畠御所討死法名で具信の名が誤って具房となっていたために、伝えられていくうちに北畠具房、もしくは具教と混同されてしまったのかなぁ、と私は思います。
『美杉秘帖』に掲載されている鈴木家歴には
〝北畠落城ノ時坂内兵庫守国司九世三位宰相中将具房ハ坂内御所ヲ逃レ〟
と、坂内具信と北畠具房を混同した記述になっています。
鈴木具家の子、家次は北畠神社を創建したとされています。
平成五年に発行された『三重県神社誌』(三重県神社庁発行)に載っている由緒を見て見ましょう。↓
〝北畠氏の一族であった坂内兵庫守具政の後裔鈴木孫兵衛家次の創立にかかると伝えられ、当初は北畠八幡宮と称していた。(以下略)〟
編集後記によると、県下の各神社に調査用紙に所要事項を記入してもらったとのこと。つまり、平成五年頃までは北畠神社側も鈴木家次は坂内家の子孫であるという認識だったのでしょう。
坂内家は北畠の親族であり、北畠の末裔であることに変わりはありません。
★法事金をくれたという松坂之城主古田助成について
「北畠御所討死法名」の最後の方に
〝右具教卿三十三回忌為菩提当國松坂之城主古田助成殿ヨリ右為法事金ト銀子三百目ヲ家次ニ給ル也〟
とあるのですが、慶長十三年当時の松坂城主は古田重治なのです。
断家譜の古田氏系図も確認しましたが、助成という人物はいませんでした。
★佐々木承禎女具教室について
三瀬の変で北畠具教正室は死んでいませんが、「北畠御所討死法名」では死んだことになっています。
勢州軍記や勢陽雑記の天正十一年の記事に具教室は尼御前として登場しています。尼御前は信雄の家臣同士の喧嘩を仲裁しています。
(伊勢記では〝信雄卿の姑也〟と記している)
また、北畠一族の北畠国永が記した『年代和歌抄』(羽林詠草)にも、具教正室が生存している記事があります。
以上のことから私は「北畠御所討死法名」の内容は信憑性どうなんだ?と思っているわけです。
拙堂の言葉を借りれば「誠しからぬことも彼是打まざれど」だと思います。
よって千代御前が天正四年に亡くなったという話も信憑性はないと。やはり千代御前(信雄の妻)は生きていたということです。
北畠御所討死法名は代々伝わってきた話を江戸中期以降に書き留めたものではないかと…
誤解を招かないよう念のために言いますが、鈴木家が末裔であることを否定するものではありません。
あの井伊直政の先代でさえ、性別を含めよくわからないことだらけなのです。
戦乱の時代を経て伝えられたものがハッキリとしてないのは仕方ないことでしょう。
(北畠神社の由緒については八代国治の著書が真実に近いと私は思います。)
★明智光秀と一緒に戦った北畠遺臣について
実は「北畠御所討死法名」には歴史好きにとって面白いことが書いてあります。
北畠の遺臣が明智光秀に味方して山崎合戦で討死したというのです。
その中に具教の首を奪い返した大宮多気丸や芝山小次郎秀時がいます。
斎藤拙堂の「伊勢国司記略」にも「多気記」を引用してこの話は紹介されています。
また多芸録にも明智光秀と一緒に戦ったという記述があります。
しかし、信憑性はどうなんでしょう?
あくまで伝承にとどめておいた方がいいかもしれませんね。
でも、めちゃくちゃ面白い話なので、大河ドラマでどうです?NHKさん!
伊勢国司記略に載っている「多気記」の大宮多気丸の話、載せておきますね。↓
其後鳥屋尾石見守竹原へ退き天正九年病死す。其時子息内蔵助へ謂て曰、汝主君の為に何卒信長を一太刀うらみよ、我死すとも汝が守神とならん。安保大内蔵と心を合せ、北畠家を取立よとありければ、内蔵助多気丸に出合、明智光秀家人風波新之丞は、多気丸伯母聟なるゆゑ、多気丸と心を合せ、新之丞へ便る。芝山次郎も一味也。天正十年春多気へ来る。
爰に芝山小平太多気落城の後伊賀へ退き、其後又多気に住す。是に依て大宮多気丸、鳥屋尾内蔵助、芝山小次郎、小平太が家へ忍び入、信長討取らんと相談す。
先味方をあつめ、風波新之丞と心を合、明智光秀を大将とし、織田家を亡すべしと、ニ月十九日多気を出立、四月五日に返り、千五百人一味連判す。四月十日多気を立、風波新之丞にたより、明智光秀を大将とする筈に定る。六月二日二万餘騎京都へ馳せ上り、信長父子討取悦事限なし
うーむ、どこまでが本当なんでしょうね。
拙堂は「誠しからぬ事も彼是打まじれど」と言ってるし、信じるも信じないも貴方次第ということで!
※「北畠氏学講座」というサイトでは大宮多気丸は山崎合戦に参加しておらず、親族が代わりに多気丸を名乗って参加し討死したとしていますが、私が知る限りそんな資料はないですね。
吉田さんの著書『鬼宿の海 九鬼嘉隆の生涯』『日本一水軍物語』に大悪才の弟が大悪才を名乗って信雄軍と戦い討死したという話が載っています。その時、大悪才は北畠具親(具教の弟)の子・具重を預かり養育していたとのこと。
吉田さんの著書に載ってるこの話をヒントに「北畠氏学講座」は創作したのでしょう。
★★追記★★2022.8.6
赤坂恒明氏「天正四年の『堂上次第』について─特に滅亡前夜の北畠一門に関する記載を中心に─」にて、法名帳の信憑性について言及があります。興味のある方はぜひ。