俺の調べ学習

素人がGoogleと図書館を使って調べます。しょせんは素人の戯言なので信用しないでください。水上に千年住んでる人。

このブログについて

歴史のちょっと気になることを調べていきます。できる範囲で。

Googleと図書館をフル活用。

 

※私は歴史好きですけれど、大河ドラマを見たり歴史小説や漫画をたまに読む程度の素人なので、私のブログを鵜呑みにしないようお願いします。

素人の浅学で調べ考えていることですので

当時の時代背景などきちんと把握せずに史料を読んで誤った解釈をしていることもあるかと思います。

 

また誤字がないよう注意していますが、うっかりミスもあるのでご了承ください。

 

引用元(出典)は必ず書くので興味がある方はご自身で資料を確認して判断してください。素人の私の解釈はあてになりませんから。

 

 

 

織田信雄の継室について

織田信雄正室は北畠具教の息女(雪姫、千代御前)だ。

系図などの記録上では、文禄元年(1592年)に亡くなっている。

正室が亡くなった後、信雄の継室は誰がなったのだろうか。

Wikipediaなどネットを見ると、継室は木造具政息女だとしている。(木造具政は北畠具教の弟)

寛政重脩諸家譜の木造系図は信雄に嫁いだ木造具政息女のことは記さない。

が、同書の織田系図は信雄の経歴のところに

「室は北畠中納言具教が女、卒す。継室は木造中将具政が女。」と記している。

他には↓

続群書類従所収の北畠系図
「女子織田信雄
織田兵部大輔信良母」とだけ記す。

旧小津清左衛門家所蔵の「木造記」の系図には

「女子織田信雄側室 織田兵部大輔信良ノ母」とある。

 

系図によって、「妾」だったり「側室」だったりと統一感がないが、当初は側室(あるいは別妻)の立場だったが、正室の死後に継室になったと思われる。

丹波柏原の織田家譜(織田信親差出 幕末〜明治の作成?)では天正五年頃の説明に「室具教之女卒以故娶木造左中将具政之女」

とし、正室の死後に嫁いだとするが、同書は天正11年生まれの秀雄の母を「北畠具教女」と記し、矛盾している。

正室の生前に信雄に嫁ぎ、文禄元年に正室が亡くなった後に継室となったと考えるのが自然だろう。

 

彼女について知る手がかりはないだろうか。

 

木造具政息女が生んだのは織田信良。

信良について調べたら、母である具政息女について何かわかるかもしれない。

 

寛政重脩諸家譜の織田系図によれば信良は

天正十二年伊勢国に生る」

天童藩(※元の上野小幡藩の藩祖は信良)に伝わる系図(御代々様御連枝様方御事跡)によると、

天正十三年乙酉年勢州大河内於御城御誕生、御母木造左中将具政卿女」

天童藩の伝える没年齢は四十二歳。

寛永諸家系図伝織田系図、柏原藩の家譜では四十三歳。

寛永諸家系図伝でも生まれは伊勢国

一歳のずれがあるが、どの系図伊勢国生まれ。

ちょっと疑問なのは場所が大河内城ということ。大河内城はとっくに廃城になっているはずなので、長嶋河内の誤伝かもしれない。

ともかく、一歳のずれがあることに私は注目している。

 

天正12年生まれならば、小牧長久手の戦いの真っ最中に出産したことになり、13年生まれならば、和睦後に出産した可能性が高い。

どちらであっても伊勢国(おそらく信雄の居城長嶋城)。

 

そして、次に紹介する史料が私はとっっても気になっている。

推定天正13年、秀吉から弟秀長に宛てた書状(豊臣秀吉文書集八p45)。

内容は、「信雄が大坂に行く。信雄の“女房衆以下”も近いうちに行くから、秀長の屋敷で預かってほしい。」というもの。

女房衆以下とは、信雄の妻とその侍女たちのことだろう。

(この時代の史料における「女房衆」とは正妻を指す場合とその家に仕える女性たちを指す場合がある。この史料は「以下」とついているから「女房衆」は正妻の意だと思う)

 

この信雄の妻は誰のことを指すか。信雄と共に大坂に行き、おそらく暫く滞在したであろう女性。

天正13年に伊勢国で信良を出産していたとすると、木造具政息女は大坂には行っていないだろう。

だとすると、信雄と共に大坂に出向いたのは正室・北畠具教息女だと考えられる。

 

 

木造具政息女について、頑張って調べたけれど、私はこれ以上の情報を見つけることができなかった。生没年も、信雄に嫁いだ正確な時期も、法名も、本当に継室になったのかどうかもわからない。

ちなみに、天童藩系図や家譜は信雄の継室について何も記していない。

 

さて、信雄の継室だと伝わる女性はもう一人いる

 

信長の弟・津田長利(又十郎)の息女である。

津田長利は天正10年本能寺の変の時、討死した。

天正11年〜13年作成の織田信雄分限帳には長利の妻であろう女性が記載されている。この女性が母だろうか。

織田家雑録によると、長利息女は信雄の継室であり「本丸殿」と呼ばれていたらしい。法名は瑞雲院殿華岩貞春大姉。

(参考 渡辺江美子氏「甘棠院殿桂林夫人―豊臣秀吉養女小姫君―」)

(※私自身は織田家雑録の全文はまだ読めていません…)

津田長利息女についても知る術がないのだが、彼女が生んだ息子の行く先を調べたら何かわかるかもしれない。

継室といえば正室も同然であり、生んだ子は重要視され、後継扱いされてたはずである。

津田長利息女の生んだ信為と良雄はというと、信雄の後を継いでいない。

信雄の所領であった宇陀松山を継いだのは高長(母は信雄家臣久保氏の息女)である。

 

(もうひとつの所領、小幡は信良の子信昌が継いだ)

丹波柏原の家譜(東京大学史料編纂所 織田信親差出)によれば、信為は寛文6年10月に亡くなり、大和の起雲寺に葬られ、法名慈光院天厳高友。同母弟である良雄は慶安4年2月に亡くなり、同じく起雲寺、法名は瑞岩院花林作塵。残念ながら二人とも年齢はわからない。

信為の子は「津田」を称し、宇陀松山藩に仕える。

ちなみに、信為の母・津田長利息女は「家女」と記されている。「家女」とは、おそらく「家女房」の意味だろう。

 

ということは、津田長利息女が継室であるのは誤伝なのだろうか…と思いきや…

 

織田盛衰記によると、津田又十郎女の息子・津田伊予守(=信為)を「御嫡」とし、宇陀松山を継ぐはずだったが「御心短慮」であるために、高長が継いだとしている。 

Wikipediaでは信為について、元々は岩清水寺の住職」と記すが、誤りだと思う。織田盛衰記や柏原藩織田家臣系譜によれば高長に後継を譲った後に大和の岩清水村に隠居したというのが正しいようだ)

 

 

 

木造具政の息女、津田長利の息女。

どちらが継室だったかは私には判断がつかない。

正室・北畠具教息女が亡くなったのは文禄元年。その後、どちらが継室になったのか。

 

織田家雑録や織田盛衰記を信じるならば、津田長利の息女が継室だったのだろうが、具政息女は北畠晴具の孫娘かつ信雄の重臣木造氏の娘であり、血筋の良さから見て継室にふさわしい気もする。

 

…うん。わからない。どちらが継室だったのか。

何か新しく史料が発見されたらいいのに。

今のところ、私にはわからん。

 

追記

Xの相互フォロワーさんと信雄の継室についてやりとりする中で考えるヒントを頂きました。

ありがとうございました。

 

義昭の御内書「北畠中将」とは?

2018年、新史料発見!と一部SNSで注目された「北畠中将」宛の足利義昭の御内書。

日付けは9月9日で、鞆浦にいる義昭から「毛利と協力して帰洛できるようにしてほしい」と。

宛先の「北畠中将」は誰か?

これは北畠具房のことであり、この御内書が天正4年11月の三瀬の変を引き起こしたのではないか?と推察された。

 

「新発見」と一部報道でもあったが、内容の翻刻は以前から公開されていたもの。

 

改定史籍集覧第27冊 第百五 和簡礼経 p506〜507にある。

なんでかよくわからん。

たぶん、和簡礼経に収録されていたものは写しで、2018年に報道されたのは原本が見つかったということだろうか。

 

あらためて「北畠中将」とは誰なのか、ちょっと考えてみた(妄想してみた)。

 

 

 

「北畠中将」と呼べる人は

 

北畠具房、北畠信雄、木造具政、大河内具良。

 

この中の誰か。義昭と近しくしていたであろう人物…

 

私の妄想では、その人は大河内具良。

 

義昭の子を産んだ「小宰相局」は大河内氏の娘だと伝わっている。具良の娘なのかは不明だが、親族なのだろう。

大日本史料第10篇之10 p64 年代記抄節 八月十五日、武家若君御誕生、御母小宰相局、伊勢大河内女也)

 

兼見卿記には 「武家御所若公御誕生、御局也、自伊勢上洛、禁中伊予殿御局御参也」とある。

奥野高広氏によると、この女性が御所の伊予局の跡目として上京してきたのを将軍義昭が懇望したのだろうと。

 

元亀3年8月15日に小宰相局は出産。その数ヶ月前の元亀3年正月13日、大河内具良は左少将に昇進している。 

さらに翌年の元亀4年2月12日、大河内具良、「左中将」に。北畠中将だ。

なんていうか、スピード昇進。

これは大河内具良が小宰相局を介して義昭と接近していたからでは…?

なぜ、義昭に接近したか。北畠家中において木造氏に対抗するためだったのではないか?

 

同じ北畠一門の坂内氏の元服したばかりの子息、坂内顕昌も元亀3年3月14日に従五位下。(御湯殿上日記より)

 

想像をたくましくすると、大河内氏と坂内氏は北畠家中において同じ派閥に属しており、大河内氏のフォローがあって坂内顕昌は従五位下に叙せられたのではないか…?

 

天正4年、大河内氏と坂内氏は三瀬の変で粛清された。

後ろ盾であった義昭の凋落によって北畠家中における勢力争いに敗れた結果ではなかろうか…。

そして、勢力争いに勝ち、北畠家中にて信雄の家臣として主導権を握るようになったのは木造氏だった。

 

大河内氏の成立は、その昔、木造氏を抑えるため北畠顕雅が分家し大河内城主になったのが始まりだという説がある。(寛永諸家系図伝、北畠系図など)

この説をとるならば、長い時代を経て、大河内氏の滅亡をもって両氏の争いは決着がついたともいえる……

 

……まぁ、都合のいい状況証拠を集めて妄想しただけですが。私は陰謀論をすぐ信じちゃうタイプなので。

 

木造氏が北畠家中でどこまで力を持っていたのか、他の人たちの昇進の状況とか、もっと調べなきゃダメだろ…と思う。

 

 

 

織田信孝の妻 鈴与姫について

神戸友盛の娘(一説には高野可夕からの養女)、織田信孝の妻について。

勢州軍記には詳しく書かれていませんが、神戸良政(能房)が編纂した『伊勢記』、そして良政の近しい人が書いたのではないかと考えられる長覚寺の北畠源氏系図には彼女に関する記述があります。

 

まず、伊勢記における鈴与姫の登場箇所を見ましょう。

(私の誤読がある可能性あります。ご容赦を)

同月信長使神戸友盛押而為隠居

神戸蔵人友盛元関盛信男一利有養子契約而信長使三七為嗣故関与神戸不喜願変政

信長聞憤之神戸夫婦為年始祝儀到江州日野時信長押之使為隠居被預蒲生賢秀

神戸侍佃又右衛門尉等僅奉友盛

使三七為友盛聟嗣神戸信長使友盛女竹子嫁三七九歳也祝言三七嗣家督此時……

 

 私のてきとーな訳

神戸友盛と関盛信は盛信の息子一利(勝蔵)を神戸家の婿養子にする約束をしていたために、信長の息子三七が神戸家にやってきたことはうれしく思っていなかった。

信長はこのことを聞いて怒って神戸夫妻が妻の実家へ正月の挨拶に出向いたときに幽閉し無理に隠居させてしまった。わずかな人数の神戸侍が友盛のそばにいるだけになった。

信長はこの時、友盛の九歳の娘竹子を三七に嫁がせ、神戸家の家督を継がせた。

 

ちょっと現代語訳はテキトーであやしいですけれど(*´Д`)

 

名前が「鈴与姫」ではなく「竹子」なのが少しびっくりでした。鈴与というのは別名だったのか通称だったのか? そこのところよくわからないのです。

長覚寺の系図でも鈴与ではなく「号竹子」と記されています。

そして九歳という具体的な年齢も。数え年ですから、実際は七歳とか八歳ですよね。

真偽はともかくこの時代の女性の年齢が伝わっているのは珍しいのではないでしょうか。

 

次に鈴与姫(竹子)が登場するシーンは天正九年、信孝に長女が生まれ、生母は神戸友盛女であるという記述です。結婚から約十年後、竹子は十八歳くらいでしょうか。(寛政諸家譜などでは信孝と友盛女の間には子がいないんですけどね)

この記述と並べるかのように、同年に信忠の嫡男、信雄の嫡男が生まれたことも書かれているのですが、、、、どうも信ぴょう性が。というのも信忠嫡男の生母を武田信玄女としているんですね。それと、信雄の息子って天正九年生まれでしたっけ?

(*´Д`)うーん、伊勢記の記述、どこまで信じていいの?

そして、悲しい話なのですが。

伊勢記において竹子が生んだというその女の子は後に人質に出され、三歳で命を落としています……。

 

さてさて、話を鈴与姫に戻しまして。

彼女がその次に伊勢記に登場する箇所を見ましょう。

(誤読の可能性あります)

……此時神戸蔵人友盛守沢城蒲生氏郷理之和之云我病者也全對信雄無逆意由訴秀吉依之信雄秀吉相計以林与五郎氏族十蔵為婿給沢城也可給神戸故岐阜ゟ侍隠居領知元共進逆心云云依盗信孝北方落来云云■■此息女乃信孝朝臣北方也又国府次郎四郎等同属信雄云云各蒲生氏郷相計云云

 ■部分は判読できなかった部分です。「母娘」と読めるような気もするのですが、つぶれちゃっててよくわかりませんでした。

 そしてこの引用箇所のすぐあと、信孝自害の記事の中にも「信孝北方」が出てきます。

 信孝の重要な家臣が討ち死にしたり、さらに家来が次々と去って行き、最終的に信孝は自害することになるという話の流れで、神戸侍にも裏切られた話も出てくるのです。↓

加之信孝士卒美濃伊豫両国諸侍聞柴田滅亡悉退散神戸侍四百八十騎衆又一味同心去岐阜城来伊勢州此時神戸侍共相伴信孝北方而来神戸云云

 

  信孝について岐阜城で戦っていた神戸侍たちは、とうとう信孝に「逆心」してみんなで伊勢に帰ってきたのです。そのとき、信孝の妻も一緒に連れ帰ってきたようです。

 伊勢記では帰ってきた神戸侍たちの名を列記し、「信雄秀吉以内意■神戸友盛和談友盛並林以内意落来云云」と書いています。(■は読めなかった字。たぶん、ゟという字かな、と思います)

 これら伊勢記にある記述から解釈すると、信孝に仕えていた神戸侍たちは友盛が信雄秀吉と和睦したという連絡を受けて信孝を捨てて伊勢に帰る決心をし、鈴与姫も一緒に連れ帰ったという話なのでしょう。

 ただ、ひっかかる記述があります。

 依盗信孝北方落来

 

これは、信孝からその妻を奪って逃げて来た

 

という解釈でいいんでしょうか?

 

だとしたら、鈴与姫の意に反して夫から引き離したということでしょうか?

鈴与姫は最後まで夫といたかったのか、それとも父の元へ帰りたがっていたのか、彼女本人にしかわかりません。

あくまで、わたしの妄想ですが、神戸侍たちは友盛から「どうか娘を助けてほしい」という密命をうけていたのではないかと思うのです。だからこそ強い決意で伊勢まで帰ってきたのではないでしょうか?

 

 

さて、父の元に帰ってきた鈴与姫は林与五郎の嫡男、十蔵と再婚します。長覚寺の系図を見るとこの後も波乱万丈な人生が記されています。(東京大学史料編纂所のサイトで閲覧できます)

 

系図によると、再婚相手の十蔵も間もなく戦死し、鈴与姫は再々婚します。

その相手はなんと、かつての許婚だった関家の息子、関勝蔵(一利、十兵衛)です。

(勝蔵と信孝北の方が再婚したことは勢州軍記でも記されています)

 

 

 関勝蔵についても少し調べたのですが、神戸友盛女・鈴与姫(竹子)を妻にしたという傍証は見つけられませんでした。でも私はこの結婚話は本当だったんじゃないかと思っています。

 

というのも、関勝蔵は蒲生家に仕えた人なんですね。

そして『伊勢記』『勢州軍記』の著者神戸能房(良政)の父・高島政房も蒲生家に仕えていた、しかも親戚同士です。

家同士交流があって、鈴与姫本人から話を聞ける状況はあり得たのではないでしょうか?

そういった関係があったのなら、高島政房が「神戸」の名を継いだことも納得いきます。

 

神戸能房(良政)は勢州軍記の序文で、「父の書き残したものをもとにして検討した」と言っています。

鈴与姫に関する話も父・政房が彼女から聞いて書き残したものがベースになっているかもしれません。

(あくまで、わたしの妄想ですけどね('ω')

 

 

…なんとなくですけど、本当に素人の浅い考察にすぎないんですけど、

 

『伊勢記』と長覚寺の系図にある鈴与姫(竹子)に関する記述は信憑性が高いんじゃないかなぁ、と思います。

本名も年齢も記されていない千代御前(信雄妻)に比べて、鈴与姫の経歴は年齢、竹子という号、再婚後に生んだ子どもの事などなど、やけに具体的なんですよね。

これは著者や著者の父の近いところに鈴与姫(もしくは鈴与姫の関係者)がいたためではないでしょうか?

※追記

女性の年齢や号までわかる系図は逆に不自然という意見を見ました。うーん。そんな気もしてきました…

 

※追記その2

別の調べものをしているときに『伊勢記』を読み直していたら、父友盛のもとに帰ってきて林十蔵と再婚した後の鈴与姫に関する記述がまだあったのに気づきました!

林十蔵内儀者元信孝北方也于時懐妊■父神戸家倶在津聞十蔵討死歎悲元■雖然男子平産後号林忠兵衛尉者是也彼内儀者嫁関勝蔵一利所以元来有契約也後男女子息等有之

■部分は読めなかった字です。

二つ目の■は「恨」という字にも見えるのですが、わかりません(*´Д`)

『伊勢記』のこの引用箇所読んだとき、私、ちょっと泣きそうになりました。

なぜなら「歎悲」という鈴与姫の「心情」を伝えるものだったからです。今までは鈴与姫の気持ちが見えてこなかったのに、これは(真偽はておき)鈴与姫の気持ちを書いてくれているのです。

何百年も前、三重県にいたお姫様が、嘆き悲しんでいた……。でも、その後無事に出産。母としての鈴与姫の強さも感じさせますね。(この時生まれた林十蔵の息子林忠兵衛尉はその後どうなったのかわかりません。でもその名が記されているということは立派に成長したということでしょう。)

 

二度も夫に先立たれた鈴与姫……勝蔵と結婚した後はどうか、幸せな人生であってほしい(;_:)

 

▲再三言っておりますが、『伊勢記』における鈴与姫の記述が事実だったかはわかりません。素人の私にはそのへん判断がつきません。ただ、真偽はともかく文献に書かれているということ自体が私を感動させるのです。そしてブログなんか書いちゃっているのです▲

 

 ☆神戸能房編『伊勢記』については、勢田道生さんの論文が詳しいです。私は勢田さんの論文を読んで『伊勢記』と長覚寺の北畠源氏系図の存在を知ることができました。

 

須賀神社と千代御前

久々の更新です。

平成のうちに更新する予定だったのですが、諸事情で遅くなりました。

 

さて、今回は愛知県岡崎市にのある神社に「千代御前」が祀られているらしい……という話です。

 

須賀神社です。

ウィキペディアを見ると

主祭神の項に

「素佐之男命、応神天皇伊弉冉命、宇賀御霊、千代御前、日本武命、迦具土命、猿田彦命、大物主命」

 

あ! 千代御前だ!

 

なんで? なんで愛知県で神様になってるの?

 

『愛知縣神社名鑑』や『岡崎市史』など見ましたが、わかりませんでした。『額田町史』を見ると、下記のようにありました↓

 

 

『額田町史』p947

 祭神の古籍について、樫山の須賀神社を一例にとれば、千代御前という古籍不明の神がある。

 

町史を編纂する専門家の方々も「不明」としているので、私がこれ以上調べるのは無理かな……?

 

 

「千代」て、よくある名前だろうし、信雄の妻・千代御前とは別人かもしれないなぁ…と思いつつ、ネットサーフィンをしていたら、

 

ある方のブログにたどり着きました。

 

(おいちゃん様、ブログ紹介を快諾してくださってありがとうございます!)

 

須賀神社で撮影した写真をあげていらしたのですが、

 

な、なんと、須賀神社には織田家の幕の紋である木瓜紋がいたるところにあるのだとか!

 

おいちゃん様のブログによると木瓜紋スサノオ命の御神紋なのだそうです。

 

ですから、織田信雄の妻・千代御前とは関係がないかもしれません。

 

でも!

 

その木瓜紋の写真を見たとき、なんだか嬉しかったのです。

 

伊勢から離れたところに「千代御前」という神様がいて、そこの神社に織田家と同じ紋がある。

偶然だろうし、須賀神社の「千代御前」がどういう神様なのかも不明です。でも、嬉しいじゃないですか。

 

今は陸路がメインなので遠い場所に思えますが、船が移動によく使われていた時代は伊勢と岡崎は感覚的には近い場所だったのかもしれません。

だから、須賀神社の千代御前は信雄の妻と同一人物という可能性はあるのでは……?

なんて淡い期待も持っています。

 

 

 

 

 

 

大西源一博士

北畠研究会様、ネタにマジレスいたします。

 

 

北畠研究会「北畠氏学講座」はある実在の人物を名指しで批判し、自説の正当性をうったえています。

引用します。

 

               ・北畠有馬家・

  有馬昌範が再興してから、範顕まで京都で過ごすが、幕末の動乱により滅亡してしまい、範顕とその子・丑之助麿、酉松麿は浪岡に隠遁した。明治6年に範顕が死去したあと有馬家は帰農、丑之助は子が無かったので相続権を放棄して、弟・酉松に相続権を譲って若くして隠居した。酉松は北海道に農業技術者として渡道し、地方を経て旭川に至った。

 酉松の子・有馬範治は明治33年(1900)に生まれ、大正末期から先祖である北畠氏の研究を進め、遺跡や土地を歴訪して、北畠昌教の墓所を発見、「北畠氏学」の原型を構成していった。「北畠氏の研究」の著者・大西源一や歴史学者平泉澄らとは同志で共同研究や、昭和3年の北畠神社別格官幣社昇格に尽力した。昭和30年ころに北畠神社先代宮司(当時新任宮司)の宮崎有祥氏らと「北畠氏学」を完成させたが、神社行政中枢部に強いパイプを持って文学博士となった大西源一ら非地元・非関係の諸氏が、地元軽視と文献学のみを基調とし、遺跡伝承を無視しはじめたために同調せず、「北畠氏学派」と「大西学派」に分裂、歴史学会と神社界に強大な力をもつ大西学派により野に下った。これにより、後継者育成も極度に困難となった。大西源一の死後はこの傾向はかすかに緩んだ。

 「北畠氏学」を完成させた有馬範治も平成5年に死去した。子孫は札幌に居住である。

 このように、伊勢北畠宗家は現在は「有馬氏」として残っている。

 

 三重県郷土史家、大西源一氏と共同研究や北畠神社別格官弊社に尽力したということですが、本当なのでしょうか?

 大西源一氏の著書、宮崎有祥氏の著書を見ても共著者に有馬さんの名はないです。

  そして宮崎さんは著書のあとがきで執筆に協力者の名前を出して謝意を述べていますが、その中に有馬さんの名前はありません。

    宮崎さんの著書『南朝伊勢国司』には北畠昌教の墓前に顕彰碑を建てた折戸三郎さんが紹介されています。しかも写真つき。

   折戸さんのことを書くなら一緒に墓を発見したという有馬さんの名前が出てきてもよさそうですが、出てきません。

 

 また、昭和三年の北畠神社別格官弊社昇格に尽力したという話。

 昇格運動は大正三年から始まり、昭和三年の昭和天皇の即位大祭にともなって叶ったのです。

 有馬さんは大正末期から研究を始めたとのことですから、運動に関わっていたというのはどこまで信じていいのでしょう?

 

 昇格運動は伊勢神宮の今井清彦少宮司、大西源一氏、北畠末裔を自称する北畠治房氏、歴史学者の八代国治の尽力、そして何より村民の熱い思いがあってこそ叶ったものなのです。(はじめ請願書を北畠治房に依頼し書いてもらったが通らなかったので八代国治に依頼した)

 

『大西源一博士小伝』に昇格運動の経緯が詳しく書かれていました。有馬さんの名は出てきませんよ。

 陰謀論者の思考回路では神社界と歴史学会に強大な力をもつ大西さんが有馬さんの名を消したということになりそう(^_^;)

 

 大西さんは長年『大神宮史』の編修に関わってきた人で伊勢神宮の職員とも親しくしていたようです。

 この経歴をヒントに北畠研究会の中の人は「神社界と歴史学会に強大な力を持つ」という設定を思いついたのでしょう。

 

 

 というわけで、図書館で大正三年~昭和三年十一月の伊勢新聞マイクロフィルムを見てきました。北畠神社の昇格に関する記事をチェックしたのです。

 

結果は、 有馬さんの名は見つかりませんでした。

 頑張って探したんですけどね。

 

 

 

昭和30年ころに北畠神社先代宮司(当時新任宮司)の宮崎有祥氏らと「北畠氏学」を完成させたが、神社行政中枢部に強いパイプを持って文学博士となった大西源一ら非地元・非関係の諸氏が、地元軽視と文献学のみを基調とし、遺跡伝承を無視しはじめたために同調せず、「北畠氏学派」と「大西学派」に分裂、歴史学会と神社界に強大な力をもつ大西学派により野に下った。

 ↑これもなんだかよくわからない言い回しの文章ですね。

 

大西さん、地元の人ですよ?

美杉村の出身ではないので狭義の意味では「非地元」ですけど。

「地元軽視」というのも意味がわからない。大西さんの著書を見る限り、めっちゃ地元重視していると思うのですが。

「北畠氏学派」「大西学派」ていう用語?も何それ?

 

大西源一氏の学説に異論があるならば論文を書いて反論すればよかっただけのことですよ。

 

これにより、後継者育成も極度に困難となった。大西源一の死後はこの傾向はかすかに緩んだ。 

 

後継者育成ていうのも意味がわからない。

歴史学ってお家流なのか!? 

「北畠氏学を完成」ていうのも意味がわからない。

学問に完成ってあるのか!?

 

「大西源一の死後はこの傾向はかすかに緩んだ」といいますが、大西さんの死後に執筆刊行された『三重・国盗り物語 総集編』にある昇格運動の話に有馬さんの名は出てきません。

 

 

昭和三十年ごろに北畠氏学を完成させたとのことですが、そのころ有馬さんは大変お忙しい時期だったはず。そんなことをやってる時間的な余裕はなかったのではないかと思います。

 

北畠研究会の中の人は有馬さんの家に北畠末裔の伝承があるのを何かの機会で知り、勝手に有馬さんの名前を使って創作したのではないかと私は推測しています。

 

「北畠氏学講座」に名前を使用されてしまった有馬さんが気の毒です。

 

 

★大西源一氏について

「北畠氏学講座」を読むと大西さんは権威主義者の悪い学者という印象を受けますが、『大西源一博士小伝』を読んでみたらそんなことはない愛されキャラの先生でした。

 

驚くことに学歴は小卒ですが、若いころは働きながら史料蒐集、研究をつづけ三重県郷土史研究に貢献した人です。

また北畠治房とのエピソードからも大西さんの人柄が伝わります。

はじめ北畠治房の間違いを指摘し激怒させたのに最終的には仲良くなって治房氏から「孫が来たより嬉しい」と言われるまでになったとか(治房氏が村民から雷爺とあだ名されていた話も面白い)。

それから高松宮への御進講を依頼されたとき「髭を生やしたままにするなよ」と念押しされる話もありました。

面白い先生だったみたいですね。

 

 

北畠研究会は約二十年間も歴史家としての大西さんの名誉を傷つけるようなことを全世界に発信しつづけています。と同時に有馬さんの名誉も傷つけているのです。

 

実在の人物の名前を出すことでリアリティをもたせ、かつ研究書等に北畠有馬氏が出てこないことの辻褄合わせをするのが狙いだったのでしょうが、そういうことしたらダメですよ。

 

追記

「北畠氏学講座」に対して疑問に思われている方がいらっしゃいました。

北畠家ウィキペディアは一時荒れていたみたいですね。

しいまんづ雑記旧録 高家「有馬」家と謎の?「有馬」家

 

ばんない様、ブログのリンク快諾していただきありがとうございます。

 

また、5ch(当時2ch )でも「北畠氏学講座」について疑問視する声がありました。

「北畠氏  5ch  」で検索すると出てきます。

 

疑問の声があったにも関わらず、「北畠氏学講座」の真偽不明な情報が史実として広まってしまったことにネットの影響力の凄さを感じています。

 

私のブログで頑張って検証を続けてもアクセスも少ないし(涙)、払拭されることはないんだろうな…

 

奇跡的に私のブログが多くの方に見てもらったとしても、払拭は不可能だと思う…

 

「北畠氏学講座」発信の情報は完全に否定されることはなく、

「諸説のうちの一つ」

「伝承の一つ」

として生き残っていくのではないかと思います。

 

追記その2

ウィキペディアって編集履歴見られるんですね!

知らなかった!

 

北畠家」の編集履歴見たら、

2015年1月6日、北畠研究会に取材して投稿したとか書いてあって、あー…

大西さんの事も一時、北畠研究会の主張そのままに載せていたみたいですね。

大西さんの遺族に名誉毀損で訴えられてもおかしくない

 

…こういう場合、どうなるんでしょうね。ウィキペディアの事情をよく知らないのですが、仮にウィキペディアの内容に関して裁判起こされたら誰が被告になるのか…

ちょっと話がずれました。ではこのへんで終わります。

多芸録と北畠御所討死法名、具房と萬輔

北畠御所討死法名の記事で、坂内具信と北畠具房が混同されていると指摘しましたが、

http://sukoyaka1868.hatenadiary.jp/entry/2018/05/28/191123

 

ウィキペディアの北畠具房の項目でも具房と具信(萬輔)が混同されています(゚o゚;;

北畠具房の戒名が萬輔の法号、圓徳院通山満浦居士になっている(・・;)

北畠御所討死法名に(おそらく)基づいて名簿を作成しているサイトを参考にWikipediaを編集したのでしょうか?

 (※大西源一『北畠氏の研究』によると具房は「松壑林公ト謚シ、京都蘆山寺ニ葬リ、高照院ト称ス」とありました。2019.12.5記)

 

 

 

 

またウィキペディアでは具房の死亡時期について注釈4で

“『多芸録』によると没年は慶長8年(1603年)に52歳で没とする異説もある”

と説明しています。

多芸録を見ると、

信雄又誘信意幽諸一室之中信意時二十五其母無寵故信意不獲受乎父雖承宗祀軍国之事無所与□□是以置之于長島得無他故又移于清洲後入京師更名信雅以慶長八年卒年五十二法諡曰圓徳院殿通山萬浦大居士信雅夫人鈴木小辨御前津駅病卒法諡曰水照院妙見大姉 

以下略

 と記述されていて、多芸録でも坂内具信(萬輔)と北畠具房が混同されています。

※□の部分は私が判読できなかった字です。

また、多芸録では具房の養子、中院親顕が慶長八年生まれであるとしている。

赤ちゃんの時に養子になって養父はすぐに死んだってこと?

 

具房が亡くなった後に親顕を北畠の養子ってことにして北畠を名乗らせたという話をネットで見たことあるけど…

 

もしかしたら、多芸録の著者はそのへんの事情がわからなかったから具房の生前に養子を迎えてると思いこんで辻褄合わせのために具房の没年を延ばしたのかも?

 

(中院親顕について時間があるときにじっくり調べてみるか)

 

 

多芸録の著者はだれかわからないけど、北畠御所討死法名を参考に書いたのかもしれません。もしくは多芸録を参考に北畠御所討死法名が書かれたのかも。

多芸録も北畠御所討死法名も千代御前を天正四年になくなったとしていたり内容が一致するので。

 

北畠具房の没年についてもう少し書きます。

多芸録では通説の天正8年ではなく慶長八年に五十二才で亡くなったという記述があります。

しかし、同じ多芸録の中で、北畠具親(具教の弟)が無くなった記述の後に

自顕能建武二年乙亥為国司至永禄十二年己巳信意滅亡之□九主二百三十二年

 と記述しており、なんだか計算が合わない

※信意は具房のことです。

※□は私が判読できなかった字です。読めない(・・;)

多分、第の異体字だと思うんだけど。

 

追記H30.6.10

吉井功兒著『伊勢北畠氏家督の消長』(トーキ)に具房の養子について書いてありました。

 

具房は桑名郡長島で幽閉されて、1580年(天正8)に京都で没したとの伝承があるが、定かではない。具房の子の親顕は1603年(慶長8)に出生と「浄北」にあるが、これは具房没後に中院通勝(槇通為の子)の子が伊勢北畠氏遺跡を継承したものである(纂北)。

  

※「浄北」=「浄願寺所蔵村上源氏北畠系図

 纂北=『系図纂要』「北畠系図

 

浄願寺で合ってるのかな?浄眼寺でなくて?

『伊勢北畠氏家督の消長』には「浄願寺所蔵村上源氏北畠系図」とあったのでそのまま載せますね。

 

『伊勢北畠氏家督の消長』は史料を逐一明示してくれているので大変ありがたいです。

北畠御所討死法名について※改稿しました

雪姫(千代御前)の記事で

 

史料「北畠御所討死法名」は三瀬の変から33年経た慶長十三年に書かれたものであると紹介しましたが、

http://sukoyaka1868.hatenadiary.jp/entry/2018/01/08/103901

 

私の早合点でした。すみません。

 

三重県史  資料編』の目次見ると、他の史料は年代書いてあるのに、北畠御所討死法名

ひとつだけ年代書いてないんですよね。

三重県史を編纂する専門家の先生方は年代不明であると判断したってことですよね。

早合点した自分がちょっと恥ずかしい。

三重県史資料編には『大日本史料第一一編之一』から引用して抜粋が載っています。

全文は『北畠氏の哀史』p54〜p62、また大西源一著『北畠氏の研究』の巻末に載ってます。鈴木弥一郎氏が所蔵していたものらしい。)

大日本史料確認したら載ってなかった…なんでや(・・;)…私が見逃してる可能性もあるのでまた図書館に行ったら見てみます

 

 

 

また、梅原三千『多芸志略』(斉藤家所蔵の書を梅原が写本したものを掲載)に

慶長十二年多気村大正庵にて法事を営みし時の『天正中北畠陣没法名帳』と題せる写本亦斉藤家に存せり

 とあり、写しが掲載されています。

 

国司記略』にある「法名帳」とはこの天正中北畠陣没法名帳のことでしょう。

内容は『北畠氏の哀史』『北畠氏の研究』の「北畠御所討死法名」とほぼ一致しています。

ただし、最後の鈴木孫兵衛家次、北畠長十郎らの名は斉藤家所蔵の法名帳にはありません。

 

達筆すぎてわかりにくかったのですが、梅原先生の補記ちょっと載せておきます。

前に載せたる所の諸士集及び二本分限張と互いに異同あるを以て今是を志るして参考に□□故に敢て□□を厭はすして全く志るす左の如し

□の部分は私が読めなかった部分です(^_^;)

斉藤家所蔵の北畠の諸士集と家臣が載ってる分限張二つの写本と内容が違う部分あるけど参考にしてもらいたいからあえて全部そのまま載せておくね、ていうことですかね。

あと、斉藤家バージョンは慶長十二年になってるのも気になる。単なる誤写かな。

  

 

さて、「北畠御所討死法名」について疑問に思う点をあげていきます。

 

素人の私が気づくくらいなので偉大な先達、斎藤拙堂先生も気づいていた部分もあるのですが…

 

★坂内具信と鈴木家次について

 

まず、斎藤拙堂も『伊勢国司記略』の中で指摘している部分をひとつ見ましょう。

 

坂内家系図にある坂内具信についてこう書いています。

北畠物語にいへる萬輔入道の事也。法名帳に萬輔が名を具房に作れり

 

また本文にこう書いています。

按ずるに、法名帳に従四位下左中将右近将監具房、天正四年十一月二十五日於坂内討死、圓徳院通山満浦大居士とあり。官位法号ともに具信の事なるべきに具房とあり。

(中略)

具此頃の国司大腹御所の名具房なるに、一家に同名付るいはれなし。思ふに満浦の名具信なるをしらざるまゝ推量して塡めたることはしられたり。

 

 

そう、「北畠御所討死法名」に

 

四位左中将坂内御所 右近将監具房

天正四 十一月廿六日当國坂内ニテ討死

圓徳院通山満浦大居士    四十七才

 

 

とあるのです。

具教の息子・北畠具房のことではなく、坂内具信(萬輔)のことだと拙堂は指摘しています。。

この法名帳は坂内兵庫頭具義の名もありますが〝具房嫡男〟と記しています。

北畠具房は坂内具義の父ではありません。系図では具義の父は具信となっています。

やはり具信(萬輔)の名を誤って〝具房〟と記したのでしょう。

 

(具信の父であろうとされる坂内具祐の元の名が〝具房〟だったので間違ったのだと思います。)

 

 

坂内具信(萬輔)は三瀬の変の時、家臣に裏切られ殺害されたと勢州軍記や北畠物語にもあります。

 

三重県郷土資料叢書 第39集

『勢州軍記』

を見ると、信雄が三瀬の変を企てるくだりで「坂内入道父子」が出てきます。

f:id:sukoyaka1868:20180616195221j:image

脚注を見ると

「坂内右近将監具房・兵庫頭具義父子(北畠家臣帳)」

とあります。

しかし、坂内御所のくだりでは

f:id:sukoyaka1868:20180616200515j:image

 

具信であるという脚注になっています。

 

北畠家臣帳にある坂内具房というのは北畠御所討死法名と同じように誤伝で、註釈者がそのまま脚注に書いてしまったのではないかと思います。

 

Wikipediaの三瀬の変の項目でも坂内具〝房〟になってる…

三重県郷土資料叢書の勢州軍記の註釈を参考にウィキペディア編集したのかもしれません。

 

 

 

坂内具信の内室についても「北畠御所討死法名」は記しています。(内室の事は拙堂は触れていませんが)

 

〝具房ノ内室則具家母公天正四歳十二月四日当國津留ニ於テ病死ス

鈴木氏小弁水照院妙見大姉〟

 

美杉村のはなし』の鈴木具家の母、小辨御前とはこの人のことでしょう。“具房”とあるのは具信の間違いで坂内具信の内室のことを指しているのだと思います。

※鈴木具家と小辨御前についてはこちらの鳥屋尾石見守の記事を見てください↓

http://sukoyaka1868.hatenadiary.jp/entry/2018/05/24/183108

 

しかし、『美杉村のはなし』では彼女は坂内具信の妻ではなく、北畠具教の内室となっています。

美杉村のはなし』は地元の伝承をまとめて物語風にした本です。

 

坂内具信の内室であったのに、北畠御所討死法名で具信の名が誤って具房となっていたために、伝えられていくうちに北畠具房、もしくは具教と混同されてしまったのかなぁ、と私は思います。

 

『美杉秘帖』に掲載されている鈴木家歴には

〝北畠落城ノ時坂内兵庫守国司九世三位宰相中将具房ハ坂内御所ヲ逃レ〟

 

と、坂内具信と北畠具房を混同した記述になっています。

 

鈴木具家の子、家次は北畠神社を創建したとされています。

 

平成五年に発行された『三重県神社誌』(三重県神社庁発行)に載っている由緒を見て見ましょう。↓

 

〝北畠氏の一族であった坂内兵庫守具政の後裔鈴木孫兵衛家次の創立にかかると伝えられ、当初は北畠八幡宮と称していた。(以下略)〟

 

編集後記によると、県下の各神社に調査用紙に所要事項を記入してもらったとのこと。つまり、平成五年頃までは北畠神社側も鈴木家次は坂内家の子孫であるという認識だったのでしょう。

坂内家は北畠の親族であり、北畠の末裔であることに変わりはありません。

 

★法事金をくれたという松坂之城主古田助成について

 

「北畠御所討死法名」の最後の方に

 

〝右具教卿三十三回忌為菩提当國松坂之城主古田助成殿ヨリ右為法事金ト銀子三百目ヲ家次ニ給ル也〟

 

とあるのですが、慶長十三年当時の松坂城主は古田重治なのです。

 

断家譜の古田氏系図も確認しましたが、助成という人物はいませんでした。

 

★佐々木承禎女具教室について

三瀬の変で北畠具教正室は死んでいませんが、「北畠御所討死法名」では死んだことになっています。

 

勢州軍記や勢陽雑記の天正十一年の記事に具教室は尼御前として登場しています。尼御前は信雄の家臣同士の喧嘩を仲裁しています。

(伊勢記では〝信雄卿の姑也〟と記している)

また、北畠一族の北畠国永が記した『年代和歌抄』(羽林詠草)にも、具教正室が生存している記事があります。

 

以上のことから私は「北畠御所討死法名」の内容は信憑性どうなんだ?と思っているわけです。

拙堂の言葉を借りれば「誠しからぬことも彼是打まざれど」だと思います。

 

よって千代御前が天正四年に亡くなったという話も信憑性はないと。やはり千代御前(信雄の妻)は生きていたということです。

 

 

 

北畠御所討死法名は代々伝わってきた話を江戸中期以降に書き留めたものではないかと…

 

誤解を招かないよう念のために言いますが、鈴木家が末裔であることを否定するものではありません。

 

あの井伊直政の先代でさえ、性別を含めよくわからないことだらけなのです。

戦乱の時代を経て伝えられたものがハッキリとしてないのは仕方ないことでしょう。

 

(北畠神社の由緒については八代国治の著書が真実に近いと私は思います。)

 

明智光秀と一緒に戦った北畠遺臣について

 

実は「北畠御所討死法名」には歴史好きにとって面白いことが書いてあります。

 

北畠の遺臣が明智光秀に味方して山崎合戦で討死したというのです。

 

その中に具教の首を奪い返した大宮多気丸や芝山小次郎秀時がいます。

 

斎藤拙堂の「伊勢国司記略」にも「多気記」を引用してこの話は紹介されています。

 

また多芸録にも明智光秀と一緒に戦ったという記述があります。

 

しかし、信憑性はどうなんでしょう?

 

あくまで伝承にとどめておいた方がいいかもしれませんね。

 

でも、めちゃくちゃ面白い話なので、大河ドラマでどうです?NHKさん!

 

 

 

 

 

伊勢国司記略に載っている「多気記」の大宮多気丸の話、載せておきますね。↓

 

其後鳥屋尾石見守竹原へ退き天正九年病死す。其時子息内蔵助へ謂て曰、汝主君の為に何卒信長を一太刀うらみよ、我死すとも汝が守神とならん。安保大内蔵と心を合せ、北畠家を取立よとありければ、内蔵助多気丸に出合、明智光秀家人風波新之丞は、多気丸伯母聟なるゆゑ、多気丸と心を合せ、新之丞へ便る。芝山次郎も一味也。天正十年春多気へ来る。

爰に芝山小平太多気落城の後伊賀へ退き、其後又多気に住す。是に依て大宮多気丸、鳥屋尾内蔵助、芝山小次郎、小平太が家へ忍び入、信長討取らんと相談す。

先味方をあつめ、風波新之丞と心を合、明智光秀を大将とし、織田家を亡すべしと、ニ月十九日多気を出立、四月五日に返り、千五百人一味連判す。四月十日多気を立、風波新之丞にたより、明智光秀を大将とする筈に定る。六月二日二万餘騎京都へ馳せ上り、信長父子討取悦事限なし

 

 

うーむ、どこまでが本当なんでしょうね。

拙堂は「誠しからぬ事も彼是打まじれど」と言ってるし、信じるも信じないも貴方次第ということで!

 

※「北畠氏学講座」というサイトでは大宮多気丸は山崎合戦に参加しておらず、親族が代わりに多気丸を名乗って参加し討死したとしていますが、私が知る限りそんな資料はないですね。

吉田さんの著書『鬼宿の海 九鬼嘉隆の生涯』『日本一水軍物語』に大悪才の弟が大悪才を名乗って信雄軍と戦い討死したという話が載っています。その時、大悪才は北畠具親(具教の弟)の子・具重を預かり養育していたとのこと。

吉田さんの著書に載ってるこの話をヒントに「北畠氏学講座」は創作したのでしょう。

 

 

 ★★追記★★2022.8.6

赤坂恒明氏「天正四年の『堂上次第』について─特に滅亡前夜の北畠一門に関する記載を中心に─」にて、法名帳の信憑性について言及があります。興味のある方はぜひ。