俺の調べ学習

素人がGoogleと図書館を使って調べます。水上に千年住んでる人。

このブログについて

歴史のちょっと気になることを調べていきます。できる範囲で。

Googleと図書館をフル活用。

 

※私は歴史好きですけれど、大河ドラマを見たり歴史小説や漫画をたまに読む程度の素人なので、私のブログを鵜呑みにしないようお願いします。

素人の浅学で調べ考えていることですので

当時の時代背景などきちんと把握せずに史料を読んで誤った解釈をしていることもあるかと思います。

 

また誤字がないよう注意していますが、うっかりミスもあるのでご了承ください。

 

引用元(出典)は必ず書くので興味がある方はご自身で資料を確認して判断してください。素人の私の解釈はあてになりませんから。

 

 

 

織田信孝の妻 鈴与姫について

神戸友盛の娘(一説には高野可夕からの養女)、織田信孝の妻について。

勢州軍記には詳しく書かれていませんが、神戸良政(能房)が編纂した『伊勢記』、そして良政の近しい人が書いたのではないかと考えられる長覚寺の北畠源氏系図には彼女に関する記述があります。

 

まず、伊勢記における鈴与姫の登場箇所を見ましょう。

(私の誤読がある可能性あります。ご容赦を)

同月信長使神戸友盛押而為隠居

神戸蔵人友盛元関盛信男一利有養子契約而信長使三七為嗣故関与神戸不喜願変政

信長聞憤之神戸夫婦為年始祝儀到江州日野時信長押之使為隠居被預蒲生賢秀

神戸侍佃又右衛門尉等僅奉友盛

使三七為友盛聟嗣神戸信長使友盛女竹子嫁三七九歳也祝言三七嗣家督此時……

 

 私のてきとーな訳

神戸友盛と関盛信は盛信の息子一利(勝蔵)を神戸家の婿養子にする約束をしていたために、信長の息子三七が神戸家にやってきたことはうれしく思っていなかった。

信長はこのことを聞いて怒って神戸夫妻が妻の実家へ正月の挨拶に出向いたときに幽閉し無理に隠居させてしまった。わずかな人数の神戸侍が友盛のそばにいるだけになった。

信長はこの時、友盛の九歳の娘竹子を三七に嫁がせ、神戸家の家督を継がせた。

 

ちょっと現代語訳はテキトーであやしいですけれど(*´Д`)

 

名前が「鈴与姫」ではなく「竹子」なのが少しびっくりでした。鈴与というのは別名だったのか通称だったのか? そこのところよくわからないのです。

長覚寺の系図でも鈴与ではなく「竹子」と記されています。

また九歳という年齢もせつないですね。数え年ですから、実際は七歳とか八歳ですよね。

そんな小さな子が両親と引き離され突然結婚することになったというのは心細かったのではないでしょうか。

 

次に鈴与姫(竹子)が登場するシーンは天正九年、信孝に長女が生まれ、生母は神戸友盛女であるという記述です。結婚から約十年後、竹子は十八歳くらいでしょうか。(寛政諸家譜などでは信孝と友盛女の間には子がいないんですけどね)

この記述と並べるかのように、同年に信忠の嫡男、信雄の嫡男が生まれたことも書かれているのですが、、、、どうも信ぴょう性が。というのも信忠嫡男の生母を武田信玄女としているんですね。それと、信雄の息子って天正九年生まれでしたっけ?

(*´Д`)うーん、伊勢記の記述、どこまで信じていいの?

そして、悲しい話なのですが。

伊勢記において竹子が生んだというその女の子は後に人質に出され、三歳で命を落としています……。

 

さてさて、話を鈴与姫に戻しまして。

彼女が最後に伊勢記に登場する箇所を見ましょう。

(誤読の可能性あります)

……此時神戸蔵人友盛守沢城蒲生氏郷理之和之云我病者也全對信雄無逆意由訴秀吉依之信雄秀吉相計以林与五郎氏族十蔵為婿給沢城也可給神戸故岐阜ゟ侍隠居領知元共進逆心云云依盗信孝北方落来云云■■此息女乃信孝朝臣北方也又国府次郎四郎等同属信雄云云各蒲生氏郷相計云云

 ■部分は判読できなかった部分です。「母娘」と読めるような気もするのですが、つぶれちゃっててよくわかりませんでした。

 そしてこの引用箇所のすぐあと、信孝自害の記事の中にも「信孝北方」が出てきます。

 信孝の重要な家臣が討ち死にしたり、さらに家来が次々と去って行き、最終的に信孝は自害することになるという話の流れで、神戸侍にも裏切られた話も出てくるのです。↓

加之信孝士卒美濃伊豫両国諸侍聞柴田滅亡悉退散神戸侍四百八十騎衆又一味同心去岐阜城来伊勢州此時神戸侍共相伴信孝北方而来神戸云云

 

  信孝について岐阜城で戦っていた神戸侍たちは、とうとう信孝に「逆心」してみんなで伊勢に帰ってきたのです。そのとき、信孝の妻も一緒に連れ帰ってきたようです。

 伊勢記では帰ってきた神戸侍たちの名を列記し、「信雄秀吉以内意■神戸友盛和談友盛並林以内意落来云云」と書いています。(■は読めなかった字。たぶん、ゟという字かな、と思います)

 これら伊勢記にある記述から解釈すると、信孝に仕えていた神戸侍たちは友盛が信雄秀吉と和睦したという連絡を受けて信孝を捨てて伊勢に帰る決心をし、鈴与姫も一緒に連れ帰ったという話なのでしょう。

 ただ、ひっかかる記述があります。

 依盗信孝北方落来

 

これは、信孝から妻を盗んで来た

 

という解釈でいいんでしょうか?

 

だとしたら、鈴与姫の意に反して夫から引き離したということでしょうか?

鈴与姫は最後まで夫といたかったのか、それとも父の元へ帰りたがっていたのか、彼女本人にしかわかりません。

あくまで、わたしの妄想ですが、神戸侍たちは友盛から「どうか娘を助けてほしい」という密命をうけていたのではないかと思うのです。だからこそ強い決意で伊勢まで帰ってきたのではないでしょうか?

 

 

さて、父の元に帰ってきた鈴与姫は林与五郎の嫡男、十蔵と再婚します。伊勢記では彼女に関する記述はここで終わっていますが、長覚寺の系図を見るとこの後も波乱万丈な人生が記されています。(東京大学史料編纂所のサイトで閲覧できます)

 

系図によると、再婚相手の十蔵も間もなく戦死し、鈴与姫は再々婚します。

その相手はなんと、かつての許婚だった関家の息子、関勝蔵(一利、盛吉)です。


 関勝蔵についても少し調べたのですが、鈴与姫(竹子)を妻にしたという傍証は見つけられませんでした。あくまで想像ですが、勝蔵の方も初婚ではなく、鈴与は後妻かもしくは側室として嫁いだのかもしれません。

系図を見ると勝蔵の子孫に「神戸」を名乗っている者が何人かいました。

もしかしたら、その人たちが鈴与姫の血を受け継いでいる孫か曾孫なのかもしれません。本当のところはどうかわかりません。

が、関勝蔵は蒲生家に仕えた人なんですね。

そして伊勢記の著者神戸能房の父・高島政房も蒲生家に仕えていた、しかも親戚同士です。

家同士交流があって、鈴与姫も昔話を語ったりしていたのではないでしょうか?

そういった関係があったのなら、高島政房が「神戸」の名を継いだことも納得いきます。

 

神戸良政は勢州軍記の序文で、「父の書き残したものをもとにして検討した」と言っています。

鈴与姫の話も父・政房が彼女から聞いた話を書き残したものがベースになっているかもしれません。

(あくまで、わたしの妄想ですけどね('ω')

 

 

…なんとなくですけど、本当に素人の浅い考察にすぎないんですけど、


『伊勢記』と長覚寺の系図にある鈴与姫(竹子)に関する記述は信憑性が高いんじゃないかなぁ、と思います。

本名も年齢も記されていない千代御前(信雄妻)に比べて、鈴与姫の経歴は年齢、竹子という名、再婚後に生んだ子どもの事などなど具体的なんですよね。

これは著者や著者の父の近いところに鈴与姫(もしくは鈴与姫の関係者)がいたためではないでしょうか?


 

 ☆神戸能房編『伊勢記』については、勢田道生さんの論文が詳しいです。私は勢田さんの論文を読んで『伊勢記』と長覚寺の北畠源氏系図の存在を知ることができました。

 

千代御前(雪姫)と本能寺の変

神戸能房編『伊勢記』に千代御前(雪姫)に関する記述がありました。なんと本能寺の変の時の話です。



此日蒲生賢秀守城安土城留守蒲生左兵衛大夫賢秀此日晩聞此事堅守城使飛脚追々遣伊勢信雄以信雄為大将欲戦雖然御薹若君頻諫賢秀欲退故三日夕赴日野此日信雄在松嶋聞此事


私の訳(自信ないけど)

この日(六月二日)蒲生賢秀安土城の留守を守っていた。そしてこの日の晩にこの事(本能寺の変)を聞き、飛脚を伊勢の信雄まで遣わした。

信雄は大将になって戦うことを望んだが、妻と息子が頻りに諫めた。

賢秀は退こうとして三日の夕方に日野城に赴いた。

信雄は松ヶ島で聞いた。






私が注目したのは、ここ


信雄は大将になって戦うことを望んだが、妻と息子が頻りに諫めた。」


千代御前(雪姫)が登場してる!


ちなみに「息子」というのは多分「秀雄」のこと。

秀雄は天正十一年生まれのはずですが、『伊勢記』では天正九年生まれだと記されています。

まだ一歳か二歳の息子が止めているのを想像すると可愛いですね。



なぜ千代御前は信雄を諫めたんだろう?


変の直後でまだ状況がわからなかったから不安だったのかな?




『伊勢記』の記述がどこまで信憑性があるかは私にはわかりませんが、千代御前(雪姫)の登場は嬉しいです。千代御前のファンですよ私は。


そして!(信憑性はさておき)


私のなかで信雄の好感度が急上昇!


妻を大事にする男はかっこいいぞ!






ところで冒頭で紹介した『伊勢記』の引用部分のすぐ後に興味深い話が載っていました。



「小川新九郎覚書云」と記してこの時の信雄の家臣たちの動きが書かれています。


ざっくりとした内容を載せます。

誤読がある可能性があることをふまえてお読みくださいね。(私は漢文が苦手です


江州や伊賀にいた家臣たちは本能寺の変を知るとすぐに松ヶ島に戻り信雄に知らせました。

そこへ蒲生から信雄へ出馬要請が。


これをうけて小川新九郎たちは


「兄の久兵衛の跡を継がせていただいた御恩があります。まずは自分たち三百人を安土へと行かせてください。兵を集め町の外の家を焼き、百々橋の内は町人も使って固めましょう。」

と申し出ます。


しかし、そうこうしているうちに明智が安土に入ったという知らせがあり、新九郎たちの提案は無かったことになったとのこと。

ああ、残念ですね。

「信雄即時出松嶋入安土退治明智則天下人誰不属信雄乎」と嘆いています。

この時すぐに信雄が安土に行って明智を退治していたら誰も文句を言わない天下人になったのに…


わずか三百人であっても、すぐに配下の兵を行かせていたら歴史は変わっていたかもしれませんね。


それにしても御恩があるからと行かせてくれと言った新九郎、あつい男です。




あ、小川新九郎というのは三瀬の変で大河内御所を討った小川久兵衛の弟で信雄に仕えていた人だと思います。

慶長十四年に「南伊勢にての巻」という覚書を記しています。もしかしたら「小川新九郎覚書」と同一のものかもしれません。

いつか「南伊勢にての巻」を閲覧して確認したいなぁ。


須賀神社と千代御前

久々の更新です。

平成のうちに更新する予定だったのですが、諸事情で遅くなりました。

 

さて、今回は愛知県岡崎市にのある神社に「千代御前」が祀られているらしい……という話です。

 

須賀神社です。

ウィキペディアを見ると

主祭神の項に

「素佐之男命、応神天皇伊弉冉命、宇賀御霊、千代御前、日本武命、迦具土命、猿田彦命、大物主命」

 

あ! 千代御前だ!

 

なんで? なんで愛知県で神様になってるの?

 

『愛知縣神社名鑑』や『岡崎市史』など見ましたが、わかりませんでした。

 

 

『額田町史』p947

 祭神の古籍について、樫山の須賀神社を一例にとれば、千代御前という古籍不明の神がある。

 

町史を編纂する専門家の方々も「不明」としているので、私がこれ以上調べるのは無理かな……?

 

 

「千代」て、よくある名前だろうし、信雄の妻・千代御前とは別人かもしれないなぁ…と思いつつ、ネットサーフィンをしていたら、

 

ある方のブログにたどり着きました。

 

おいちゃん様、ブログ紹介を快諾してくださってありがとうございます!

 

須賀神社で撮影した写真をあげていらしたのですが、

 

な、なんと、須賀神社には織田家の幕の紋である木瓜紋がいたるところにあるのだとか!

 

おいちゃん様のブログによると木瓜紋スサノオ命の御神紋なのだそうです。

 

ですから、織田信雄の妻・千代御前とは関係がないかもしれません。

 

でも!

 

その木瓜紋の写真を見たとき、なんだか嬉しかったのです。

 

伊勢から離れたところに「千代御前」という神様がいて、そこの神社に織田家と同じ紋がある。

偶然だろうし、須賀神社の「千代御前」がどういう神様なのかも不明です。でも、嬉しいじゃないですか。

 

今は陸路がメインなので遠い場所に思えますが、船が移動によく使われていた時代は伊勢と岡崎は感覚的には近い場所だったのかもしれません。

だから、須賀神社の千代御前は信雄の妻と同一人物という可能性はあるのでは……?

なんて淡い期待も持っています。

 

 

 

 

 

 

大西源一博士

北畠研究会様、ネタにマジレスいたします。

 

 

北畠研究会「北畠氏学講座」はある実在の人物を名指しで批判し、自説の正当性をうったえています。

引用します。

 

             ・北畠有馬家・

  有馬昌範が再興してから、範顕まで京都で過ごすが、幕末の動乱により滅亡してしまい、範顕とその子・丑之助麿、酉松麿は浪岡に隠遁した。明治6年に範顕が死去したあと有馬家は帰農、丑之助は子が無かったので相続権を放棄して、弟・酉松に相続権を譲って若くして隠居した。酉松は北海道に農業技術者として渡道し、地方を経て旭川に至った。

 酉松の子・有馬範治は明治33年(1900)に生まれ、大正末期から先祖である北畠氏の研究を進め、遺跡や土地を歴訪して、北畠昌教の墓所を発見、「北畠氏学」の原型を構成していった。「北畠氏の研究」の著者・大西源一や歴史学者平泉澄らとは同志で共同研究や、昭和3年の北畠神社別格官幣社昇格に尽力した。昭和30年ころに北畠神社先代宮司(当時新任宮司)の宮崎有祥氏らと「北畠氏学」を完成させたが、神社行政中枢部に強いパイプを持って文学博士となった大西源一ら非地元・非関係の諸氏が、地元軽視と文献学のみを基調とし、遺跡伝承を無視しはじめたために同調せず、「北畠氏学派」と「大西学派」に分裂、歴史学会と神社界に強大な力をもつ大西学派により野に下った。これにより、後継者育成も極度に困難となった。大西源一の死後はこの傾向はかすかに緩んだ。

 「北畠氏学」を完成させた有馬範治も平成5年に死去した。子孫は札幌に居住である。

 このように、伊勢北畠宗家は現在は「有馬氏」として残っている。

 

 三重県郷土史家、大西源一氏と共同研究や北畠神社別格官弊社に尽力したということですが、本当なのでしょうか?

 大西源一氏の著書、宮崎有祥氏の著書を見ても共著者に有馬さんの名はないです。

  そして宮崎さんは著書のあとがきで執筆に協力者の名前を出して謝意を述べていますが、その中に有馬さんの名前はありません。

    宮崎さんの著書『南朝伊勢国司』には北畠昌教の墓前に顕彰碑を建てた折戸三郎さんが紹介されています。しかも写真つき。

   折戸さんのことを書くなら一緒に墓を発見したという有馬さんの名前が出てきてもよさそうですが、出てきません。

 

 また、昭和三年の北畠神社別格官弊社昇格に尽力したという話。

 昇格運動は大正三年から始まり、昭和三年の昭和天皇の即位大祭にともなって叶ったのです。

 有馬さんは大正末期から研究を始めたとのことですから、運動に関わっていたというのはどこまで信じていいのでしょう?

 

 昇格運動は伊勢神宮の今井清彦少宮司、大西源一氏、北畠末裔を自称する北畠治房氏、歴史学者の八代国治の尽力、そして何より村民の熱い思いがあってこそ叶ったものなのです。(はじめ請願書を北畠治房に依頼し書いてもらったが通らなかったので八代国治に依頼した)

 

『大西源一博士小伝』に昇格運動の経緯が詳しく書かれていました。有馬さんの名は出てきませんよ。

 陰謀論者の思考回路では神社界と歴史学会に強大な力をもつ大西さんが有馬さんの名を消したということになりそう(^_^;)

 

 大西さんは長年『大神宮史』の編修に関わってきた人で伊勢神宮の職員とも親しくしていたようです。

 この経歴をヒントに北畠研究会の中の人は「神社界と歴史学会に強大な力を持つ」という設定を思いついたのでしょう。

 イマドキなら「日本会議陰謀論者」が食いつきそうなネタですが(^_^;)(当時日本会議はまだ存在していませんよ)

 

 というわけで、図書館で大正三年~昭和三年十一月の伊勢新聞マイクロフィルムを見てきました。北畠神社の昇格に関する記事をチェックしたのです。

 

結果は、 有馬さんの名は見つかりませんでした。

 頑張って探したんですけどね。

 

 

 

昭和30年ころに北畠神社先代宮司(当時新任宮司)の宮崎有祥氏らと「北畠氏学」を完成させたが、神社行政中枢部に強いパイプを持って文学博士となった大西源一ら非地元・非関係の諸氏が、地元軽視と文献学のみを基調とし、遺跡伝承を無視しはじめたために同調せず、「北畠氏学派」と「大西学派」に分裂、歴史学会と神社界に強大な力をもつ大西学派により野に下った。

 ↑これもなんだかよくわからない言い回しの文章ですね。

 

大西さん、地元の人ですよ?

美杉村の出身ではないので狭義の意味では「非地元」ですけど。

「地元軽視」というのも意味がわからない。大西さんの著書を見る限り、めっちゃ地元重視していると思うのですが。

「北畠氏学派」「大西学派」ていう用語?も何それ?

 

大西源一氏の学説に異論があるならば論文を書いて反論すればよかっただけのことですよ。

 

これにより、後継者育成も極度に困難となった。大西源一の死後はこの傾向はかすかに緩んだ。 

 

後継者育成ていうのも意味がわからない。

歴史学ってお家流なのか!? 

「北畠氏学を完成」ていうのも意味がわからない。

学問に完成ってあるのか!?

 

「大西源一の死後はこの傾向はかすかに緩んだ」といいますが、大西さんの死後に執筆刊行された『三重・国盗り物語 総集編』にある昇格運動の話に有馬さんの名は出てきません。

 

 

昭和三十年ごろに北畠氏学を完成させたとのことですが、そのころ有馬さんは大変お忙しい時期だったはず。そんなことをやってる時間的な余裕はなかったのではないかと思います。

 

北畠研究会の中の人は有馬さんの家に北畠末裔の伝承があるのを何かの機会で知り、勝手に有馬さんの名前を使って創作したのではないかと私は推測しています。

 

「北畠氏学講座」に名前を使用されてしまった有馬さんが気の毒です。

 

 

★大西源一氏について

「北畠氏学講座」を読むと大西さんは権威主義者の悪い学者という印象を受けますが、『大西源一博士小伝』を読んでみたらそんなことはない愛されキャラの先生でした。

 

驚くことに学歴は小卒ですが、若いころは働きながら史料蒐集、研究をつづけ三重県郷土史研究に貢献した人です。

また北畠治房とのエピソードからも大西さんの人柄が伝わります。

はじめ北畠治房の間違いを指摘し激怒させたのに最終的には仲良くなって治房氏から「孫が来たより嬉しい」と言われるまでになったとか(治房氏が村民から雷爺とあだ名されていた話も面白い)。

それから高松宮への御進講を依頼されたとき「髭を生やしたままにするなよ」と念押しされる話もありました。

面白い先生だったみたいですね。

 

 

北畠研究会は約二十年間も歴史家としての大西さんの名誉を傷つけるようなことを全世界に発信しつづけています。と同時に有馬さんの名誉も傷つけているのです。

 

実在の人物の名前を出すことでリアリティをもたせ、かつ研究書等に北畠有馬氏が出てこないことの辻褄合わせをするのが狙いだったのでしょうが、そういうことしたらダメですよ。

 

追記

「北畠氏学講座」に対して疑問に思われている方がいらっしゃいました。

北畠家ウィキペディアは一時荒れていたみたいですね。

しいまんづ雑記旧録 高家「有馬」家と謎の?「有馬」家

 

ばんない様、ブログのリンク快諾していただきありがとうございます。

 

また、5ch(当時2ch )でも「北畠氏学講座」について疑問視する声がありました。

「北畠氏  5ch  」で検索すると出てきます。

 

疑問の声があったにも関わらず、「北畠氏学講座」の真偽不明な情報が史実として広まってしまったことにネットの影響力の凄さを感じています。

 

私のブログで頑張って検証を続けてもアクセスも少ないし(涙)、払拭されることはないんだろうな…

 

奇跡的に私のブログが多くの方に見てもらったとしても、払拭は不可能だと思う…

 

「北畠氏学講座」発信の情報は完全に否定されることはなく、

「諸説のうちの一つ」

「伝承の一つ」

として生き残っていくのではないかと思います。

 

追記その2

ウィキペディアって編集履歴見られるんですね!

知らなかった!

 

北畠家」の編集履歴見たら、

2015年1月6日、北畠研究会に取材して投稿したとか書いてあって、あー…

大西さんの事も一時、北畠研究会の主張そのままに載せていたみたいですね。

大西さんの遺族に名誉毀損で訴えられてもおかしくない

 

…こういう場合、どうなるんでしょうね。ウィキペディアの事情をよく知らないのですが、仮にウィキペディアの内容に関して裁判起こされたら誰が被告になるのか…

ちょっと話がずれました。ではこのへんで終わります。

多芸録と北畠御所討死法名、具房と萬輔

北畠御所討死法名の記事で、坂内具信と北畠具房が混同されていると指摘しましたが、

http://sukoyaka1868.hatenadiary.jp/entry/2018/05/28/191123

 

ウィキペディアの北畠具房の項目でも具房と具信(萬輔)が混同されています(゚o゚;;

北畠具房の戒名が萬輔の法号、圓徳院通山満浦居士になっている(・・;)

北畠御所討死法名に(おそらく)基づいて名簿を作成しているサイトを参考にWikipediaを編集したのでしょうか?

 (※大西源一『北畠氏の研究』によると具房は「松壑林公ト謚シ、京都蘆山寺ニ葬リ、高照院ト称ス」とありました。2019.12.5記)

 

 

 

 

またウィキペディアでは具房の死亡時期について注釈4で

“『多芸録』によると没年は慶長8年(1603年)に52歳で没とする異説もある”

と説明しています。

多芸録を見ると、

信雄又誘信意幽諸一室之中信意時二十五其母無寵故信意不獲受乎父雖承宗祀軍国之事無所与□□是以置之于長島得無他故又移于清洲後入京師更名信雅以慶長八年卒年五十二法諡曰圓徳院殿通山萬浦大居士信雅夫人鈴木小辨御前津駅病卒法諡曰水照院妙見大姉 

以下略

 と記述されていて、多芸録でも坂内具信(萬輔)と北畠具房が混同されています。

※□の部分は私が判読できなかった字です。

また、多芸録では具房の養子、中院親顕が慶長八年生まれであるとしている。

赤ちゃんの時に養子になって養父はすぐに死んだってこと?

 

具房が亡くなった後に親顕を北畠の養子ってことにして北畠を名乗らせたという話をネットで見たことあるけど…

 

もしかしたら、多芸録の著者はそのへんの事情がわからなかったから具房の生前に養子を迎えてると思いこんで辻褄合わせのために具房の没年を延ばしたのかも?

 

(中院親顕について時間があるときにじっくり調べてみるか)

 

 

多芸録の著者はだれかわからないけど、北畠御所討死法名を参考に書いたのかもしれません。もしくは多芸録を参考に北畠御所討死法名が書かれたのかも。

多芸録も北畠御所討死法名も千代御前を天正四年になくなったとしていたり内容が一致するので。

 

北畠具房の没年についてもう少し書きます。

多芸録では通説の天正8年ではなく慶長八年に五十二才で亡くなったという記述があります。

しかし、同じ多芸録の中で、北畠具親(具教の弟)が無くなった記述の後に

自顕能建武二年乙亥為国司至永禄十二年己巳信意滅亡之□九主二百三十二年

 と記述しており、なんだか計算が合わない

※信意は具房のことです。

※□は私が判読できなかった字です。読めない(・・;)

多分、第の異体字だと思うんだけど。

 

追記H30.6.10

吉井功兒著『伊勢北畠氏家督の消長』(トーキ)に具房の養子について書いてありました。

 

具房は桑名郡長島で幽閉されて、1580年(天正8)に京都で没したとの伝承があるが、定かではない。具房の子の親顕は1603年(慶長8)に出生と「浄北」にあるが、これは具房没後に中院通勝(槇通為の子)の子が伊勢北畠氏遺跡を継承したものである(纂北)。

  

※「浄北」=「浄願寺所蔵村上源氏北畠系図

 纂北=『系図纂要』「北畠系図

 

浄願寺で合ってるのかな?浄眼寺でなくて?

『伊勢北畠氏家督の消長』には「浄願寺所蔵村上源氏北畠系図」とあったのでそのまま載せますね。

 

『伊勢北畠氏家督の消長』は史料を逐一明示してくれているので大変ありがたいです。

吉田兼宗について

ネットの中の北畠家臣シリーズです。

 

雪姫(千代御前)がきっかけで北畠について色々調べ始めてネットには北畠に関する根拠不明な情報があふれていることを知りました。

 

北畠家臣についてググる

いろんなサイトやブログで情報をゲット

図書館に行って資料を見る

俺「ネットに書いてあることと違うじゃねーか!」

 

ということの繰り返しなのです。

ネットにあふれている情報の根源は北畠研究会「北畠氏学講座」ではないかと。二十年ほど前ニフティのころからあるサイトのようですね。

 

「北畠氏学講座」を参考にいろんな人がブログに書いたり歴史系のサイトにまとめたり、2ch戦国版に書き込んだり

 

そうしていくうちにネットのなかでは史実として広まっていったのでしょう。

そしてゲームや小説の設定にも影響を与えているのです。

 

「北畠氏学講座」にある北畠家臣の情報を全部検証するのは面倒ですがやっていきましょう!(少しずつだけど)

 

というわけで、今回は吉田兼宗について。

 

「北畠氏学講座」に書いてあることを引用します↓

 

吉田 兵庫 兼宗 (?)

 北畠具教の家臣。父は諸大夫の吉田兵庫頭。名は兼宗。父の号大悪才にあやかり、小悪才と号する。北畠具教から剣術の手ほどきを受け、伊勢新刀流の創始に尽力している。北畠具教が逆心に殺害され、三瀬御所が攻められると奮戦したが、敗れて脱出した。ここで戦死したとも伝えられるが、このときに戦死したのは小悪才是重という者であって兵庫兼宗とは別人であるという。

その後、父の屋敷に戻り、軍備を整えて鳥屋尾・井上が助けた鶴女をかくまう。そして屋敷が柘植・滝川の織田軍伊勢組に包囲されると脱出して信長を狙撃する旅にでる。

信長が本能寺で襲撃されたときに明智光秀軍の中にいたとされるが、定かではない。しかし山崎の戦いでは明智軍に参陣している。その後は全国各地を放浪し、出羽の北畠昌教のところへもいっているようである。

最終的には九鬼嘉隆の客分として関ヶ原の地方戦闘に参加して稲葉軍と戦っている。

 

 長い文章なので信じちゃいますね。私も信じてました。では、吉田大悪才の末裔吉田兼明さんの著書を見て確認しましょう。(おそらく、吉田さんの家に代々伝わる話をもとに書かれているのであくまで“伝承”ということで)

 

『鬼宿の海 九鬼嘉隆の生涯』(吉田兼明著 平成十一年)

・三瀬の変のときの記述

P70~71

  最後まで戦っていた吉田兼宗(小悪才)は重囲を斬抜け、御所の近くの長ヶ(現・大台町長ヶ)に館を構える父兼房(大悪才)の元に走った。

 知らせを受けた大悪才は大事の折に御所にいなかった己れを憂いた。

小悪才は素早く旅装をととのえると家臣の斉藤十内を召連れて信長を討つべく、伊勢と大和の境、高見峠の方角を指して旅立っていった。

 大悪才も家臣に武装させると、先祖吉田兼行が南朝より拝領した、後醍醐天皇の長旗(三匹両に日の丸)をかかげ、泰然と敵中を行軍し、本拠の茂原城(現・多気郡宮川村茂原)にしりぞいた。

 しばらく後、先代が築いた国見平城の麓にある東中山屋敷に移り、さらに伊藤十内、吉田小六郎、殿原喜太郎、岸庄蔵の四人の家臣をつれて惣門に引き籠り、具教の菩提をとむらうことを唯一の生きがいにして大悪才は再挙を待ったのである。

・ 兼宗が放浪しているという記述

P80~83

 

 三年ぶり惣門から茂原城に戻った大悪才のもとに、信長の身辺をうかがい、流浪する小悪才から文がもたらされた。それには信長を討ち果すまでは故郷に帰らないと書かれていた。

 小悪才にとって亡き具教は主君であるばかりでなく、剣の師でもあった。

「兵庫は居らぬか、兵庫が伴をせい」

と、小姓の中で一番腕のたつ小悪才をとくに可愛がり、どこに行くにも具教のそばにあった小悪才である。大悪才は一途な息子の心情が痛いほどよくわかった。

 (中略)

 この戦を耳にした嘉隆は、彦祖父隆次の時から親交を重ねる吉田氏を救うのは、この時とばかり信雄に使者を送ると、自身は茂原へと急いだ。

「大悪才殿、父祖の恩顧に報いるため、取るものもとりあえず参上致してござる。

吉野朝以来の名家を絶やすは、御先祖もなげかれましょうぞ。大河内合戦で織田勢をさんざんに打ち破った日置や本田さえも織田に随身する今。大悪才殿、なにとぞ織田に仕官なされるよう、それがしからもおたのみ申す」

 嘉隆は我がことのごとく、必死になって説得したが、大悪才は、

「九鬼殿、おことの我れらを思うてくれる気持は重々有難くお受け申す。

だが、親房卿と共に伊勢に下向した吉田一族、北畠以外を主家と仰ぐは武家の道からはずれ申す。此れからは家来ともども野を拓き、山をくだいて農に帰する所存にござる。

ただ一つおたのみ申すことは、どうしても百姓がいやじゃと言う、吉田加兵衛、谷利兵衛の両人をおことの幕下に加えていただきとうござる」

 武士を捨ててまで北畠氏に忠義を尽す大悪才をみて、嘉隆は深く心に打たれるものがあった。

 この話を嘉隆から聞いた信長は、あっぱれ武士よと賞賛され、大悪才一生の間、毎年米二百俵を贈り、新規に開発する田畑の検地は免除のうえ、徒来よりの七ヶ所の館、屋敷はそのまま、道中往来の際は家来まで帯刀勝手たるべしの御沙汰があった。旅にある小悪才兼宗はこのことを知る由もなかった。

 ・明智光秀と共に戦ったという記述

P88~89

話は変わるが、本能寺の変時、信長を討った明智光秀のもとに多数の北畠旧臣が馳せ参じ、彼と共に運命を共にした。その主だった者に大宮多気丸吉守、同九右衛門尉光成、松永左兵衛秀次、鳥谷尾内蔵助義信、家城紋覚頼高、芝山小次郎秀時、稲生覚内時秀、畠山小助高義、大島勘蔵頼通、鈴木久右衛門家貢、桑原伊豆守森信等である。彼等は山崎合戦で討死したが、明智勢に加わり敗戦後逃げのびた者に吉田小悪才兼宗がいる。卜伝流の達人である小悪才は三瀬御所の変につづいて二度、激戦の中を斬抜け姿を消した。

関ヶ原の時、稲葉軍と戦ったという記述

 P120~121

 ちょうどその、頃吉田小悪才兼宗も勝蔵よりの報せを聞いて、譜代の臣・北林円右衛門、朝見甚之丞、岸与次郎、畑尾甚右衛門、伊藤十内、(中略)斉藤十内他農兵も交えた三百名近くの者を引具して北館に急いでいた。吉田氏と北氏は兼宗の祖父以来、親類付き合いの中であった。

 九月一日、稲葉蔵人直道は鳥羽城攻撃のふれを出し、八百数十人の軍勢をもって岩出城を出陣すると、宮川を渡り鳥羽に向った。

(中略)

やっと駆けつけた吉田兼宗の手勢が乾の方角にある八幡の森に依り、稲葉軍に攻撃を開始したためかろうじて虎口を脱した。

(中略)

この戦いを山田中島合戦と呼ぶ。

 『志摩海賊記』(吉田正幸著 昭和五十三年)P107によると、山田中島合戦については「山田中嶋軍記」に記されているとのこと。

 読みたいと思って図書館の蔵書検索にかけても出てこないので、個人所蔵のものか、神宮文庫所蔵のものかもしれません。

 

『勢陽雑記』p270に

「稲葉蔵人攻中嶋城事」という項目があり慶長五年の山田中島合戦の経緯が書いてありました。が、吉田兼宗のことは書いてありません。うーむ。

 

…山田中島合戦についてもっと詳しく知りたいのですが、どの資料にあたればいいのやら。

 

・三瀬御所で奮戦して死んだという吉田小悪才是重について

「北畠御所討死法名」にその名があり「天正四、十一月廿五日當国三瀬ニテ具教ト一所ニ討死ス」という記述があります。

史料がないので断定できませんが、吉田さんの著書を信じるなら小悪才是重と兼宗は別人でしょう。この点は「北畠氏学講座」の情報は正しいということで。

 

まとめ

鶴女をかくまったこと、放浪中に出羽の北畠昌教に会いに行った話は吉田さんの著書には書かれていない。根拠不明の話である。

 

「北畠氏学講座」の情報は吉田さんの著書、鹿角の折戸氏の伝承をとりいれた創作であると私は思う。

 

※創作であったとしても有馬さんが北畠の末裔であることを否定するものではない。

北畠御所討死法名について※改稿しました

雪姫(千代御前)の記事で

 

史料「北畠御所討死法名」は三瀬の変から33年経た慶長十三年に書かれたものであると紹介しましたが、

http://sukoyaka1868.hatenadiary.jp/entry/2018/01/08/103901

 

私の早合点でした。すみません。

 

三重県史  資料編』の目次見てください↓

f:id:sukoyaka1868:20180526151146j:image

ひとつだけ年代書いてないですよね。

三重県史を編纂する専門家の先生方は年代不明であると判断したってことですよね。

早合点した自分がちょっと恥ずかしい。

三重県史資料編には『大日本史料第一一編之一』から引用して抜粋が載っています。

全文は『北畠氏の哀史』p54〜p62、また大西源一著『北畠氏の研究』の巻末に載ってます。鈴木弥一郎氏が所蔵していたものらしい。)

大日本史料確認したら載ってなかった…なんでや(・・;)…私が見逃してる可能性もあるのでまた図書館に行ったら見てみます

 

 

 

また、梅原三千『多芸志略』(斉藤家所蔵の書を梅原が写本したものを掲載)に

慶長十二年多気村大正庵にて法事を営みし時の『天正中北畠陣没法名帳』と題せる写本亦斉藤家に存せり

 とあり、写しが掲載されています。

 

国司記略』にある「法名帳」とはこの天正中北畠陣没法名帳のことでしょう。

内容は『北畠氏の哀史』『北畠氏の研究』の「北畠御所討死法名」とほぼ一致しています。

ただし、最後の鈴木孫兵衛家次、北畠長十郎らの名は斉藤家所蔵の法名帳にはありません。

 

達筆すぎてわかりにくかったのですが、梅原先生の補記ちょっと載せておきます。

前に載せたる所の諸士集及び二本分限張と互いに異同あるを以て今是を志るして参考に□□故に敢て□□を厭はすして全く志るす左の如し

□の部分は私が読めなかった部分です(^_^;)

斉藤家所蔵の北畠の諸士集と家臣が載ってる分限張二つの写本と内容が違う部分あるけど参考にしてもらいたいからあえて全部そのまま載せておくね、ていうことですかね。

あと、斉藤家バージョンは慶長十二年になってるのも気になる。単なる誤写かな。

  

 

さて、「北畠御所討死法名」について疑問に思う点をあげていきます。

 

素人の私が気づくくらいなので偉大な先達、斎藤拙堂先生も気づいていた部分もあるのですが…

 

★坂内具信と鈴木家次について

 

まず、斎藤拙堂も『伊勢国司記略』の中で指摘している部分をひとつ見ましょう。

 

坂内家系図にある坂内具信についてこう書いています。

北畠物語にいへる萬輔入道の事也。法名帳に萬輔が名を具房に作れり

 

また本文にこう書いています。

按ずるに、法名帳に従四位下左中将右近将監具房、天正四年十一月二十五日於坂内討死、圓徳院通山満浦大居士とあり。官位法号ともに具信の事なるべきに具房とあり。

(中略)

具此頃の国司大腹御所の名具房なるに、一家に同名付るいはれなし。思ふに満浦の名具信なるをしらざるまゝ推量して塡めたることはしられたり。

 

 

そう、「北畠御所討死法名」に

 

四位左中将坂内御所 右近将監具房

天正四 十一月廿六日当國坂内ニテ討死

圓徳院通山満浦大居士    四十七才

 

 

とあるのです。

具教の息子・北畠具房のことではなく、坂内具信(萬輔)のことだと拙堂は指摘しています。。

この法名帳は坂内兵庫頭具義の名もありますが〝具房嫡男〟と記しています。

北畠具房は坂内具義の父ではありません。系図では具義の父は具信となっています。

やはり具信(萬輔)の名を誤って〝具房〟と記したのでしょう。

 

(具信の父であろうとされる坂内具祐の元の名が〝具房〟だったので間違ったのだと思います。)

 

 

坂内具信(萬輔)は三瀬の変の時、家臣に裏切られ殺害されたと勢州軍記や北畠物語にもあります。

 

三重県郷土資料叢書 第39集

『勢州軍記』

を見ると、信雄が三瀬の変を企てるくだりで「坂内入道父子」が出てきます。

f:id:sukoyaka1868:20180616195221j:image

脚注を見ると

「坂内右近将監具房・兵庫頭具義父子(北畠家臣帳)」

とあります。

しかし、坂内御所のくだりでは

f:id:sukoyaka1868:20180616200515j:image

 

具信であるという脚注になっています。

 

北畠家臣帳にある坂内具房というのは北畠御所討死法名と同じように誤伝で、註釈者がそのまま脚注に書いてしまったのではないかと思います。

 

Wikipediaの三瀬の変の項目でも坂内具〝房〟になってる…

三重県郷土資料叢書の勢州軍記の註釈を参考にウィキペディア編集したのかもしれません。

 

 

 

坂内具信の内室についても「北畠御所討死法名」は記しています。(内室の事は拙堂は触れていませんが)

 

〝具房ノ内室則具家母公天正四歳十二月四日当國津留ニ於テ病死ス

鈴木氏小弁水照院妙見大姉〟

 

美杉村のはなし』の鈴木具家の母、小辨御前とはこの人のことでしょう。“具房”とあるのは具信の間違いで坂内具信の内室のことを指しているのだと思います。

※鈴木具家と小辨御前についてはこちらの鳥屋尾石見守の記事を見てください↓

http://sukoyaka1868.hatenadiary.jp/entry/2018/05/24/183108

 

しかし、『美杉村のはなし』では彼女は坂内具信の妻ではなく、北畠具教の内室となっています。

美杉村のはなし』は地元の伝承をまとめて物語風にした本です。

 

坂内具信の内室であったのに、北畠御所討死法名で具信の名が誤って具房となっていたために、伝えられていくうちに北畠具房、もしくは具教と混同されてしまったのかなぁ、と私は思います。

 

『美杉秘帖』に掲載されている鈴木家歴には

〝北畠落城ノ時坂内兵庫守国司九世三位宰相中将具房ハ坂内御所ヲ逃レ〟

 

と、坂内具信と北畠具房を混同した記述になっています。

 

鈴木具家の子、家次は北畠神社を創建したとされています。

 

平成五年に発行された『三重県神社誌』(三重県神社庁発行)に載っている由緒を見て見ましょう。↓

 

〝北畠氏の一族であった坂内兵庫守具政の後裔鈴木孫兵衛家次の創立にかかると伝えられ、当初は北畠八幡宮と称していた。(以下略)〟

 

編集後記によると、県下の各神社に調査用紙に所要事項を記入してもらったとのこと。つまり、平成五年頃までは北畠神社側も鈴木家次は坂内家の子孫であるという認識だったのでしょう。

北畠の末裔であることに変わりはありませんが。

※現在はどうなのかわかりません。北畠神社に行く機会があったら宮司さんに聞いてみようかな…

 

★法事金をくれたという松坂之城主古田助成について

 

「北畠御所討死法名」の最後の方に

 

〝右具教卿三十三回忌為菩提当國松坂之城主古田助成殿ヨリ右為法事金ト銀子三百目ヲ家次ニ給ル也〟

 

とあるのですが、慶長十三年当時の松坂城主は古田重治なのです。

 

断家譜の古田氏系図も確認しましたが、助成という人物はいませんでした。

 

★佐々木承禎女具教室について

三瀬の変で北畠具教正室は死んでいませんが、「北畠御所討死法名」では死んだことになっています。

 

勢州軍記や勢陽雑記の天正十一年の記事に具教室は尼御前として登場しています。尼御前は信雄の家臣同士の喧嘩を仲裁しています。

(伊勢記では〝信雄卿の姑也〟と記している)

 

 

以上のことから私は「北畠御所討死法名」の内容は信憑性どうなんだ?と思っているわけです。

拙堂の言葉を借りれば「誠しからぬことも彼是打まざれど」だと思います。

 

よって千代御前が天正四年に亡くなったという話も信憑性はないと。やはり千代御前(信雄の妻)は生きていたということです。

 

 

 

北畠御所討死法名は代々伝わってきた話を江戸中期以降(もしかしたら幕末?)に書き留めたものではないかと…

 

誤解を招かないよう念のために言いますが、鈴木家が末裔であることを否定するものではありません。

 

あの井伊直政の先代でさえ、性別を含めよくわからないことだらけなのです。

戦乱の時代を経て伝えられたものがハッキリとしてないのは仕方ないことでしょう。

 

(北畠神社の由緒については八代国治の著書が真実に近いと私は思います。国会図書館デジタルコレクションで読めるので、興味がある方はご自分で判断なさってください。)

 

明智光秀と一緒に戦った北畠遺臣について

 

実は「北畠御所討死法名」には歴史好きにとって面白いことが書いてあります。

 

北畠の遺臣が明智光秀に味方して山崎合戦で討死したというのです。

 

その中に具教の首を奪い返した大宮多気丸や芝山小次郎秀時がいます。

 

斎藤拙堂の「伊勢国司記略」にも「多気記」を引用してこの話は紹介されています。

 

また多芸録にも明智光秀と一緒に戦ったという記述があります。

 

しかし、信憑性はどうなんでしょう?

 

あくまで伝承にとどめておいた方がいいかもしれませんね。

 

でも、めちゃくちゃ面白い話なので、大河ドラマでどうです?NHKさん!

 

 

 

 

 

伊勢国司記略に載っている「多気記」の大宮多気丸の話、載せておきますね。↓

 

其後鳥屋尾石見守竹原へ退き天正九年病死す。其時子息内蔵助へ謂て曰、汝主君の為に何卒信長を一太刀うらみよ、我死すとも汝が守神とならん。安保大内蔵と心を合せ、北畠家を取立よとありければ、内蔵助多気丸に出合、明智光秀家人風波新之丞は、多気丸伯母聟なるゆゑ、多気丸と心を合せ、新之丞へ便る。芝山次郎も一味也。天正十年春多気へ来る。

爰に芝山小平太多気落城の後伊賀へ退き、其後又多気に住す。是に依て大宮多気丸、鳥屋尾内蔵助、芝山小次郎、小平太が家へ忍び入、信長討取らんと相談す。

先味方をあつめ、風波新之丞と心を合、明智光秀を大将とし、織田家を亡すべしと、ニ月十九日多気を出立、四月五日に返り、千五百人一味連判す。四月十日多気を立、風波新之丞にたより、明智光秀を大将とする筈に定る。六月二日二万餘騎京都へ馳せ上り、信長父子討取悦事限なし

 

 

うーむ、どこまでが本当なんでしょうね。

拙堂は「誠しからぬ事も彼是打まじれど」と言ってるし、信じるも信じないも貴方次第ということで!

 

※「北畠氏学講座」では大宮多気丸は山崎合戦に参加しておらず、親族が代わりに多気丸を名乗って参加し討死したとしていますが、私が知る限りそんな資料はないですね。

吉田さんの著書『鬼宿の海 九鬼嘉隆の生涯』『日本一水軍物語』に大悪才の弟が大悪才を名乗って信雄軍と戦い討死したという話が載っています。その時、大悪才は北畠具親(具教の弟)の子・具重を預かり養育していたとのこと。

吉田さんの著書に載ってるこの話をヒントに「北畠氏学講座」は創作したのでしょう。

 

追記

北畠神社のFacebook(2017.8.25)見たら鈴木家次は「伊勢国北畠家第九代当主北畠具房公の四代孫」になっていました。

坂内家の子孫でもないし、『美杉村のはなし』(具教の孫)とも違う話になっています。

もうどれが本当の話かわからない…

 

まぁ、伝承とはそういうものだから、

深く考えなくていいか…