北畠御所討死法名の記事で、坂内具信と北畠具房が混同されていると指摘しましたが、
http://sukoyaka1868.hatenadiary.jp/entry/2018/05/28/191123
ウィキペディアの北畠具房の項目でも具房と具信(萬輔)が混同されています(゚o゚;;
北畠具房の戒名が萬輔の法号、圓徳院通山満浦居士になっている(・・;)
北畠御所討死法名に(おそらく)基づいて名簿を作成しているサイトを参考にWikipediaを編集したのでしょうか?
(※大西源一『北畠氏の研究』によると具房は「松壑林公ト謚シ、京都蘆山寺ニ葬リ、高照院ト称ス」とありました。2019.12.5記)
またウィキペディアでは具房の死亡時期について注釈4で
“『多芸録』によると没年は慶長8年(1603年)に52歳で没とする異説もある”
と説明しています。
多芸録を見ると、
信雄又誘信意幽諸一室之中信意時二十五其母無寵故信意不獲受乎父雖承宗祀軍国之事無所与□□是以置之于長島得無他故又移于清洲後入京師更名信雅以慶長八年卒年五十二法諡曰圓徳院殿通山萬浦大居士信雅夫人鈴木小辨御前津駅病卒法諡曰水照院妙見大姉
以下略
と記述されていて、多芸録でも坂内具信(萬輔)と北畠具房が混同されています。
※□の部分は私が判読できなかった字です。
また、多芸録では具房の養子、中院親顕が慶長八年生まれであるとしている。
赤ちゃんの時に養子になって養父はすぐに死んだってこと?
具房が亡くなった後に親顕を北畠の養子ってことにして北畠を名乗らせたという話をネットで見たことあるけど…
もしかしたら、多芸録の著者はそのへんの事情がわからなかったから具房の生前に養子を迎えてると思いこんで辻褄合わせのために具房の没年を延ばしたのかも?
(中院親顕について時間があるときにじっくり調べてみるか)
多芸録の著者はだれかわからないけど、北畠御所討死法名を参考に書いたのかもしれません。もしくは多芸録を参考に北畠御所討死法名が書かれたのかも。
多芸録も北畠御所討死法名も千代御前を天正四年になくなったとしていたり内容が一致するので。
北畠具房の没年についてもう少し書きます。
多芸録では通説の天正8年ではなく慶長八年に五十二才で亡くなったという記述があります。
しかし、同じ多芸録の中で、北畠具親(具教の弟)が無くなった記述の後に
と記述しており、なんだか計算が合わない
※信意は具房のことです。
※□は私が判読できなかった字です。読めない(・・;)
多分、第の異体字だと思うんだけど。
追記H30.6.10
吉井功兒著『伊勢北畠氏家督の消長』(トーキ)に具房の養子について書いてありました。
具房は桑名郡長島で幽閉されて、1580年(天正8)に京都で没したとの伝承があるが、定かではない。具房の子の親顕は1603年(慶長8)に出生と「浄北」にあるが、これは具房没後に中院通勝(槇通為の子)の子が伊勢北畠氏遺跡を継承したものである(纂北)。
浄願寺で合ってるのかな?浄眼寺でなくて?
『伊勢北畠氏家督の消長』には「浄願寺所蔵村上源氏北畠系図」とあったのでそのまま載せますね。
『伊勢北畠氏家督の消長』は史料を逐一明示してくれているので大変ありがたいです。