織田信雄の正室、北畠具教の娘。 信雄の妻についてググると三瀬の変に遭って死んだと出てくる一方、生きて信雄と添い遂げたとも出てきます。
一体、どっちなの?
▶︎三瀬の変とは
天正四年11月25日(1576年12月15日)に伊勢国三瀬御所の北畠具教や同国田丸城に招かれていた長野具藤らが襲撃され討死した事件である(Wikipediaより引用)
三瀬の変は簡単に言うと、信雄が自分の妻の父親および一族を亡き者にして伊勢を支配した…嫁の実家乗っ取り事件です。
この事件で信雄の妻は一族と共に死んだのか、それとも仇である夫と共に生きたのか調べてみました。
①雪姫(千代御前)が三瀬の変で死んだとする史料
『北畠御所討死法名』
これは三瀬の変から33年経った時に書かれたものとされています。
北畠具教および一族の三十三回忌の法要を末裔(鈴木家次、三瀬の変のとき逃げ延びた男児の息子だという)が慶長13年に営んだのです。
松阪城主古田助成から法事金をもらったと書いてあります。
ちなみに、鈴木家次は北畠神社の前身である北畠八幡を創建したという言い伝えがあります。
※鈴木家次に関しては『美杉村のはなし』を参考に書きました。
『北畠御所討死法名』には三瀬の変でなくなった人たちが記載されていて、 『北畠氏の哀史』という本に全文翻刻が載っています。
雪姫(千代御前)について書いてあるのでしょうか…?
具教卿息女則平信雄室 同名千代御前 天正四 十一月廿八日 一門生害ヲ聞落ルイ、ナノ女不成於田丸城生害蓮照院不先妙元大姉
具教が亡くなった三日後に田丸城で殺されたとしています。
※調べたら生害には自害という意味もあるそうです。殺されたか自害したかのどちらかですね。
では次に、雪姫(千代御前)が生きていたことを示す史料を見てみます。
②三瀬の変で死なずにその後も生きていたとする史料
『織田信雄分限帳』という史料があります。
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=096-0185&PROC_TYPE=ON&SHOMEI=織田信雄分限帳&REQUEST_MARK=96-185&OWNER=国文研鵜飼&IMG_NO=2
五百貫文
小牧ノ内中村郷 此外六百貫文南イセ分相違 御内様
「織田信雄分限帳」に「御内様」という人物が記されています。この「御内様」が信雄正室の北畠具教娘であろうと、あるブログ様で指摘されていました。
(織田信雄分限帳は群書類従にも収録されています)
分限帳とは家中の誰それがいくら持っているとかそういう記録みたいなものです。
「御内様」はなんと五百貫!
現代の価値にするといくらなのか正確にわからないんですが、セレブじゃないですか?御内様。
よく見ると
小牧ノ内中村郷 此外六百貫南イセ分相違
とあります。
「小牧と南伊勢にあった六百貫の代わり」てことかな?
ちょっと訳に自信ない(;´д`)
▲2021年2月18日修正しました。織田信雄分限帳における「相違」とは「その土地の代わりに」という意味だそうです。▲「相違」という語の用法の勉強不足で間違った訳を載せていました。申し訳ありません。
御内様はかつては南伊勢に領地を持っていたんでしょうか。
ちなみにこの「織田信雄分限帳」が書かれたのはいつ頃かというと天正11〜13年頃ではないかと。(鶴舞中央図書館のサイトに推定年代載ってました)
三瀬の変は天正四年の出来事ですから、「御内様」=雪姫(千代御前)ならば、三瀬の変で死んでいないことになります。
次の史料を紹介しましょう。
「群書類従所収北畠系図」に具教の娘として
内大臣信雄室 勢州大野城主参議秀雄母 文禄元年七月六日於予州道後逝去 法名天応
とありました。
三重県松阪市にある北畠氏ゆかりの浄眼寺にあった系図にも「内大臣信雄室」として同じ文章が載っています。また江戸時代初期に幕府主導で編纂した系図「寛永諸家系図」にも同じようなことが書いてあります。
これらの系図で注目すべき点は「文禄元年に伊豫で亡くなった」というところですね。
三瀬の変があった天正四年は西暦1576年、文禄元年は西暦1592年。
雪姫は三瀬の変で死んでいないことになります。
では、もうひとつ、確実に雪姫(千代御前)だと断定はできないのですが、おそらく雪姫のことであろう史料があります。
天正六年、徳川家康が「玉丸御局」という人物に宛てた朱印状があります。
「玉丸御局」とは何者なのか?
三重県史資料編は「玉丸御局」とは田丸城の留守をあずかる信雄の妻、雪姫ではないか?としています。
もし、この人物が雪姫ならば、彼女は北畠の女として外交をこなしていたということではないでしょうか?
悲劇のお姫様というだけではなく、立派に役目をつとめるファーストレデイとしての一面が見えてくるような気がします。
③死んだのか?生きていたのか?どっち?
では、次に江戸時代末期に編纂された『系図纂要』を見てみましょう。↓
女 千代御前 内大臣信雄公室天正四年十一ノ廿八自殺蓮照院妙元
一本文禄元年七ノ六死于伊輿道後法名天應
結果は…
伊豫で亡くなった説と三瀬の変で亡くなった説
両論併記!
ここまで見てきて、おや、と思ったのは
どこにも「雪姫」という文字が史料にはないということ。
「千代御前」「北畠具教女」「御内様」「信雄室」「玉丸御局」であって「雪姫」とは書かれていないのです。
『勢州軍記』『北畠物語』『伊勢国司略記』なども見ましたが「雪姫」とは書かれていませんでした。
信雄の妻は何故「雪姫」と呼ばれているのでしょう。
図書館で見つけた北畠の本拠地美杉村の小学校の卒業記念の文集にヒントがありました。
昭和の終わり頃に書かれたものです。 卒業記念に六年生のみんなで地元の歴史や伝承について本で調べたり村の大人に訊いたりしてまとめたらしいです。
この文集に雪姫(千代御前)の伝説について書かれていました。
三瀬の変のとき、雪姫は捕らえられ桜の木に縛り付けられ、どこからともなく白い狐がやってきて縄をかみきり、姫を逃がしてあげたという話です。
一部引用します↓
その時、織田氏が千代御前だけいけどりにして、東御所の桜の木にくくりつけておきました。そこへ一ぴきのきつねがきて、つなをかみきり、千代御前をつれて川上の方へにげていったのです。それで、その桜は今でも「雪姫桜」とよばれ、六田に残っています。なぜ「雪姫桜」かというと千代御前のはだが雪のように白かったので、「雪姫桜」とよばれるようになったのです
この文章から察するに「雪姫」は後世の地元の人たちがいつ頃からか呼ぶようになったニックネームと言えるのではないでしょうか?
ところで、この雪姫伝説は歌舞伎の金閣寺の話によく似ています。私が思うに、雪姫伝説は江戸時代に歌舞伎の影響を受けて出来上がった伝説なのではないかと。
④やっぱり生きていたと思います
三瀬の変で雪姫は死んでいないと思います。
北畠系図や織田信雄分限帳といった史料がありますし、それに…雪姫(千代御前)が三瀬の変で死んだとする史料「北畠御所討死法名」はちょっと信憑性があやしいと考えています。
『北畠御所討死法名』について私なりの見解をまとめています↓
sukoyaka1868.hatenadiary.jp
『北畠御所討死法名』は鵜呑みにしてはいけない史料だというのが私の考えで、雪姫が三瀬の変で死んだというのも根拠がないのではないか、と。
そして何より、
信雄の嫡男・秀雄は天正11年生まれです。秀吉に養女に出した小姫が生まれたのは13年(あるいは14年)です。
秀雄と小姫の母は、「北畠具教女」なのです。(寛政譜他より 坪内定益本織田系図は秀雄の母を「伊勢国司具教女」、鈴木真年本は「源具教の女」と記す)
天正四年の三瀬の変で死んでいたとしたら計算が合わない…
具教の他の娘(千代御前の姉妹)を継室にして生ませた可能性も考えましたが、それはあり得ないと思います。
系図や他の文献を探しても具教の他の娘に信雄の継室になった女性はいません。
そして信雄の継室は寛政譜では木造具政(北畠具教の弟)の娘、織田家雑録では津田長利の娘とされています。
木造具政の娘は信良を生んだ女性です。出産時期を考えると、秀雄、小姫を生んだ女性とは別人であるのは明らかです。
また津田長利の娘のことだとするならば、なぜ「北畠」具教女と記されたか説明できない。
では秀雄、小姫を生んだ女性は誰か?
北畠の当主でもあった信雄の嫡男を生んだ女性は北畠の嫡流の女性だったはず。
と考えると、やはり秀雄、小姫の母は千代御前(雪姫)なのです。
⑤生き続けたとして、いつ亡くなったのだろう?
先の記事で紹介した北畠の系図では 「文禄元年七月六日伊豫道後で亡くなった」ということが記されていましたが、「文禄三年」だという史料もあるそうです。
『織田家雑録』に高野山の記録から「天応妙性大禅定尼信雄室文禄三年七月六日」と採録しているそうです。(渡辺江美子氏「甘棠院殿桂林夫人―豊臣秀吉養女小姫君―」より)
しかしこれは渡辺江美子氏によると「この年紀は大祥忌(3回忌)にあたって位牌を納めた日を示すものであろう」とのこと。やはり文禄元年に亡くなったのでしょうか。
ところで、雪姫(千代御前)の最期の地である伊予道後。信雄の隠遁先です。夫婦そろって伊予道後に行ったということですね。
そして雪姫が亡くなった文禄元年といえば、信雄が伊予を出て名護屋に入った年です。
夫である信雄は妻の最期をみとってから伊予を発ったのでしょうか?
それとも、妻を伊予に置いて去ってしまったのでしょうか?
雪姫が亡くなった年についてモヤモヤとした思いを抱えていたある日、
「信雄の室は天正十九年に亡くなった」という情報を見つけました。
天正十九年だとしたら、信雄は妻の最期を見届けたことになります。
国文学の研究をされている勢田道生さんが「神戸能房編『伊勢記』の著述意図と内容的特徴」という論文を書かれていまして
- 神戸能房(勢州軍記の著者)が編纂した『伊勢記』で「北畠具教の娘、信雄室が天正十九年に亡くなったこと」について言及されていること
- 和歌山県の長覚寺に蔵されていたという北畠源氏系図が東京大学史料編纂所のサイトで見ることができること
ということを知ることができました。
さっそく、長覚寺の「北畠源氏系図」を見てみました↓
具教の子として
女子 内大臣信雄公室 具房為子参議秀雄母 於伊豫卒 天正十九年月日
また、具房の子として、信雄の隣にも記されていました。雪姫(千代御前)は兄具房の養女になっているので、二人は夫婦であり兄妹(姉弟?)でもあるのですね。
女子 内大臣信雄室 實具教卿女天正十九年 於伊豫薨 秀雄信良等母也
ちなみに、兄具房も三瀬の変で死なずに生きています。生かされた理由は「信雄の養父だから」です。それを考えると雪姫(千代御前)も「正妻だから」生かされたと説明できます。
そして、もうひとつ『伊勢記』も見ました。(愛知県の蓬佐文庫にありました)
天正十八年条に
翌年織田信雄自鴉山被移伊豫御臺薨伊豫
とあり、また
天正十九年条に
五月 織田信雄北方薨 伊豫国
とありました。
『伊勢記』では雪姫(千代御前)が亡くなったのは天正十九年の五月です。
娘の小姫が亡くなったのは天正十九年七月ですから、もし『伊勢記』の記述が正しければ、実母のあとを追うようになくなったのですね。
▲追記
神戸能房編『伊勢記』において、本能寺の変の直後、信雄の妻が登場します。おそらく雪姫(千代御前)のことだと思われます。『伊勢記』は江戸時代の編纂なので信憑性はよくわかりません。しかし、執筆時の神戸能房の認識では雪姫(千代御前)は三瀬の変で死なずに生きていたということでしょう。なんらかの文献、あるいは口伝で雪姫(千代御前)は生きていたと伝わっていたからではないでしょうか??
▲追記▲
近衛信尹の雑記として伝わる『古今聴観』によると信雄は天正十九年五月二日時点で堺にいたようです。(伊予に行く信雄を見送るために信尹が堺に赴いたと考えられるとか)参考:柴裕之氏「織田信雄の改易と出家」より
天正十九年五月に雪姫(千代御前)が亡くなったというのはやはり『伊勢記』の誤伝なのでしょうか?
『古今聴観』に書かれていること、『伊勢記』に書かれていること双方を信じて考えると、雪姫(千代御前)は伊予に入って数日~数週間で亡くなったことになってしまう(;_:)
うーん、やはり『伊勢記』の「天正十九年五月」というのは誤伝であって系図にあるように「文禄元年七月六日」に亡くなったというのが事実なのでしょうか?「七月六日」という具体的な日付がわかっている系図の方が『伊勢記』よりも信ぴょう性は高い気がします……。
文禄元年に亡くなったとして想像するならば、雪姫(千代御前)は晩年を伊予で夫とゆっくり過ごせたことになりますね……。でも、最期は? 最期は夫に看取ってもらったのか?? うーん、わかりません(;_:)
▲さらに追記
『竹田家譜』に医師の竹田定加が信雄の「御女房衆」を診察したという記録があります。これは天正13年2月6日の記録だと比定されています。研究者の先生方はこの「御女房衆」のことを「信雄の妻」だとしています。
Wikipediaではこの女性を信雄の「継室」としていますが、私は正室・北畠具教の娘(=千代御前=雪姫)のことだと思います。
千代御前は三瀬の変の後も生きて信雄を支え、子を産み、小牧長久手の戦いも夫婦で乗り越えたのでしょう。
もしかしたら竹田定加の診察を受けたのは、小姫を授かって体調が悪くなったからなのかもしれません。
※Wikipedia「織田信雄」の項における千代御前(雪姫)に関する記述は『三重・国盗り物語』を出典にあげていますが、この本は伊勢北畠の歴史を創作を混じえて叙述したものであり、書いてあることを全て歴史的事実であるとするのはダメなものです。
(とはいえ、貴重な文書などの翻訳が付録でついていたり子孫の方に伝わる逸話などが載っており、とても良い本です)