雪姫/千代御前が三瀬の変で死んでいないと推測できる史料を見ていきましょう
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=096-0185&PROC_TYPE=ON&SHOMEI=織田信雄分限帳&REQUEST_MARK=96-185&OWNER=国文研鵜飼&IMG_NO=2
「五百貫文
小牧ノ内中村郷 此外六百貫文南イセ分相違
御内様 」
「織田信雄分限帳」に「御内様」とあります。ここにある御内様が信雄正室の北畠具教娘なのではないかと、ある方のブログで指摘されていました。
分限帳とは家計簿みたいなもので、家中の誰それにいくら与えているとか記してあるんですね。
こちらの「御内様」はなんと五百貫!
現代の価値にするといくらなのか正確にわからないんですが、セレブじゃないですか?御内様。
よく見ると
「小牧ノ内中村郷 此外六百貫南イセ分相違」
とあります。
「小牧と南伊勢にあった六百貫の代わりに」てことかな?
御内様はかつては南伊勢に領地を持っていたんでしょうか。
ちょっと訳に自信がないんですが(;´д`)
▲2021年2月18日修正しました。織田信雄分限帳における「相違」とは「その土地の代わりに」という意味があるようです。▲「相違」という語の用法の勉強不足で間違った訳を載せていました。申し訳ありません。
ちなみにこの「織田信雄分限帳」が書かれたのはいつ頃かというと天正11〜13年頃ではないかと。(鶴舞中央図書館のサイトに推定年代載ってました)
三瀬の変は天正四年の出来事ですから、「御内様」=雪姫ならば、三瀬の変で死んでいないことになります。
次の史料を紹介しましょう。
に具教の娘として
「内大臣信雄室 勢州大野城主参議秀雄母 文禄元年七月六日於予州道後逝去
法名天応」
とありました。
全国の名家や神社やお寺に残っていた史料を写させてもらい収録したものです。
この北畠系図は、どこにあった系図を写させてもらったのでしょう?
おそらく、おそらくですが、
三重県松阪市にある北畠氏ゆかりの浄眼寺にあった系図を写させてもらったのではないかと思います。浄眼寺文書の村上源氏北畠系図と内容が同じなので。
*後日見てみたら、違う部分もいくつかありました。浄眼寺の系図を写したという私の説は微妙です・・・ごめんなさい (H30.7.6 記 )
この系図で注目すべき点は「文禄元年に伊豫で亡くなった」というところですね。
三瀬の変があった天正四年は西暦1576年、文禄元年は西暦1592年。
雪姫は三瀬の変で死んでいないことになります。
では次に、雪姫が三瀬の変で死んだとする史料を紹介します。
『北畠御所討死法名』
これは三瀬の変から33年経った時に書かれたものです。※このことについては追記その2を見てください。
北畠具教および一族の三十三回忌の法要を末裔(鈴木家次、三瀬の変のとき逃げ延びた男児の息子だという)が慶長13年に営んだのです。
松阪城主古田助成から法事金をもらったと書いてあります。
ちなみに、鈴木家次は北畠神社の前身である北畠八幡を創建したという言い伝えがあります。
※鈴木家次に関しては『美杉村のはなし』を参考に書きました。
『北畠御所討死法名』には三瀬の変でなくなった人たちが記載されています。
『北畠氏の哀史』という本に全文翻刻が載ってました。
図書館で閲覧してきました。
雪姫について書いてあるのでしょうか…
「具教卿息女則平信雄室 同名千代御前
天正四 十一月廿八日 一門生害ヲ聞落ルイ、ナノ女不成於田丸城生害
蓮照院不先妙元大姉」
具教が亡くなった三日後に田丸城で殺されたとしています。
※調べたら生害には自害という意味もあるそうです。殺されたか自害したかのどちらかですね。
三瀬の変で死んだのか死んでないのか、どっちの史料を信じたらいいの?
では、次に江戸時代末期に編纂された『系図纂要』を見てみましょう。↓
「女 千代御前 内大臣信雄公室
天正四年十一ノ廿八自殺
蓮照院妙元
一本文禄元年七ノ六
死于伊輿道後
法名天應 」
結果は…
伊豫で亡くなった説と三瀬の変で亡くなった説
両論併記!
ここまで見てきて、おや、と思ったのは
どこにも「雪姫」という文字が史料にはないということ。
「千代御前」「北畠具教女」「御内様」「信雄室」であって「雪姫」とは書かれていないのです。
『勢州軍記』『北畠物語』『伊勢国司略記』なども見ましたが「雪姫」とは書かれていませんでした。
史料には「雪姫」という名はありませんでした。
信雄の妻、千代御前は何故「雪姫」と呼ばれているのでしょう。
図書館で見つけた地元の小学校の卒業記念の文集にヒントがありました。
昭和の終わり頃に書かれたものです。
卒業記念に六年生のみんなで地元の歴史について本で調べたり村の大人に訊いたりしてまとめたらしいです。
一部引用します↓
“その時、織田氏が千代御前だけいけどりにして、東御所の桜の木にくくりつけておきました。そこへ一ぴきのきつねがきて、つなをかみきり、千代御前をつれて川上の方へにげていったのです。それで、その桜は今でも「雪姫桜」とよばれ、六田に残っています。なぜ「雪姫桜」かというと千代御前のはだが雪のように白かったので、「雪姫桜」とよばれるようになったのです”
この文章から察するに「雪姫」は後世の地元の人たちがいつ頃からか呼ぶようになったニックネームと言えるのではないでしょうか?
追記
北畠神社の宮司だった宮崎有祥さんの『南朝と伊勢国司』p191~192に
「この頃茶筅丸は元服して北畠三介具豊と名乗り、二十万石を領して具教卿の二女(伝記の雪姫はこの人か)と婚姻の式を挙げました。」(傍線筆者)
とありました。
「二女」と書いてあるのも気になりますが、それよりも「伝記の雪姫はこの人か」という表現が気になります。「雪姫」と書いてある史料とか書物があるということでしょうか?
残念なことに参考文献が書いてなかったので、よくわからないです。
もしかしたら、個人所蔵の文書かも?
追記その2 H30.5.17
本文で「北畠御所討死法名」は三瀬の変から33年後に書かれたものだと書きましたが、ちょっと、疑問に思うようになりました…
「北畠御所討死法名」の最後の方にある慶長13年という記述を見て私は33年後に書かれたものだと信じて本文に書いたのですが…
もっと後の時代に書かれたものではないかという疑問がわいてきました。
法事金をくれたという松坂城主古田助成についても疑問に思うことがあり…
「北畠御所討死法名」の最後の方、載せておきます(旧字・異体字を現代の字に一部変えました)
「右具教卿三十三回忌為菩提当国松坂之城主古田助成殿ヨリ右為法事金ト銀子三百目ヲ家次二給ル也
慶長十三歳 戌甲 十一月十九日ヨリ廿五日迠当所大正庵ニテ法事行者之
大正庵浄誉上人紋仁和尚代之
伊勢国司従二位大納言北畠晴具四代末孫
上多気小津村 鈴木孫兵衛家次改是ル
同所立川村北畠家人芝山小平太吉秀同改ル
家次五代末孫上多気村 北畠長十郎 」
最後の最後に「家次五代末孫」とありますが、これは晴具から数えて五代なのか、家次から数えて五代なのか・・・・
家次から数えて五代なら、この「北畠御所討死法名」が書かれたのは時代が慶長十三年よりだいぶ後の時代になると思います。
また慶長13年時点で松坂城主は本当に古田助成という人物だったのかという疑問があります。
調べてみないとわかりませんが、この疑問を抱くようになってから「北畠御所討死法名」は史料として信頼できるのか?と考えています。