俺の調べ学習

素人がGoogleと図書館を使って調べます。しょせんは素人の戯言なので信用しないでください。水上に千年住んでる人。

鳥屋尾石見守満栄が救出したのは誰?

鳥屋尾石見守満栄に関するネット情報について

 

 

・三瀬の変の時、田丸城から身重の北畠具房室鶴女を井上専正と共に救出し、北畠家臣の吉田大悪才の屋敷にかくまう

・具教の弟具親が挙兵するとそれに従って挙兵するも川俣の戦いで討死する

 

という話をネットでは見かけます。

(何かのゲームでもそんな話になってるみたいですね)

 

ネット上にある鳥屋尾石見守満栄のこの二つの話は何の資料を根拠に書かれているのでしょう?

Wikipediaの鳥屋尾満栄の情報も資料がよくわかりません。

 

 

まず、石見守が川俣谷の戦いで討死したという話について私が調べたことを書いていきます。↓

 

ネット上にある「石見守が川俣の戦いで討死した」という話の出処はどこにあるのか…

井上専正の記事でも紹介したこちらのサイトがネット上の初出ではないかと…

http://kitabatake.world.coocan.jp/kitabatake13.4.html

「北畠氏学講座」さんです。

Wikipedia北畠家という項目の外部リンクにこちらのサイトが貼られてて驚いた)

 

 

なんの資料を元に書かれているのでしょうか…?

どこかにそういう伝承があるのでしょうか?

 

勢州軍記などでは川俣谷の戦いで闘ったのは息子の右近将監だと書いてあります。

 

※『勢州軍記』を確認したら右近将監は「甥」とありました。私のミスです。申し訳ありません。(H30.9.1)

 

 

では石見守はどうなったのか。

勢州軍記や北畠物語、多芸録には書かれていませんが美杉村の資料館に石見守は戦に敗れた後、中国に移ったという史料が展示されています。

(私は去年の9月ごろ資料館に行って見たのですが詳しい内容をメモした紙を紛失しました( ; ; )

 

また鳥屋尾石見守の最期について、『伊勢国司記略』(斎藤拙堂著)には「多気記」(多気郷士鈴木長十郎持伝の書)を引用して

「其後鳥屋尾石見守竹原へ退き天正九年病死す」と書いてありました。

(ただし、「多気記」について拙堂は〝誠しからぬ事も彼是打まじれど〟と書いている)

 

どれが事実かはわかりませんが、川俣の戦いで石見守は討死していないでしょう。

 

 

それから、田丸城から具房室鶴女を救出し吉田家の屋敷にかくまったという話。

これも「北畠氏学講座」さんが初出でしょう。

勢州軍記や多芸録、北畠氏に関する研究書等には書かれていません。

 

「北畠氏学講座」では吉田大悪才の屋敷に鶴女をかくまい、そこで北畠昌教が生まれたとしています。

吉田大悪才の末裔である吉田兼明さんの名前を出して説得力を持たせています。

 

吉田さんの著書を図書館で読んできました。引用します。(『志摩海賊記』吉田正幸  昭和53年)※吉田さんの本名は正幸で、後に兼明をペンネームにしたようです。

 

「兼房。本姓藤原氏(卜部氏)にして、(中略)永禄年間織田信長、たびたび伊勢を攻めた折、兼房もたえず戦場に出て戦功数度あり。国司家御親族の内で信長へ内通密謀の人を害し奉り主君へ言上し、隠居を願えどもお許しなく、自ら入道して大悪才と号し出勤する。具教卿御隠居遊ばされ三瀬の御館へ移住に付き、兼房も供奉して長ヶ村に住す。

   その後三瀬の御屋形は信長表裏の謀略にて焼尽し具教卿を始め御公達も滅亡、天正四年十一月二十五日具教卿五十九才なり。御家人大半信長へ降参、大悪才は家来四人(伊藤十内、吉田小六郎、殿原喜太郎、岸庄蔵)を召し連れ知行所の山奥五十町の惣門という所に遁世、自ら一字石の法華を書写して、主君の御菩提を弔うこと三年、この間、百姓共夜所用を達す。」

(中略)

「兼房は文禄四年二月四日大往生を遂げ法名は本覚院殿桃原宝林居士と号す。」

 

これは吉田さん持伝の古文書を現代風に直して掲載したものだそうです。

 

吉田さんの著書にはどこにも鶴女をかくまったことも北畠昌教のことも書いてありません。

 

「北畠氏学講座」は何を根拠に言っているのでしょうか…

 

※「北畠氏学講座」では「桃ヶ原」という地名を出して「茂原」(吉田屋敷のあった場所)のことであろうとしていますが、吉田さんの著書にある大悪才の法名からとったのではないかと。茂原(読み・もはら)の旧名が「桃ヶ原」という話を私は聞いたことがない。

わざと“伝承”ぽく語ることで逆にリアリティを持たせる「北畠氏学講座」のテクニックなのだと思う。

 

 

実は鳥屋尾石見守が北畠遺児を救出した話は「北畠氏学講座」以外にもあります。

1997年出版の『美杉村のはなし 民話と歴史』(坂本幸 著)に載っています。

 

地元の伝承をまとめ、物語風にした本です。

 

引用します↓

 

織田の大軍を迎え撃つため、不眠不休で味方の軍の指揮にあたっていた城代の北畠左衛門尉政成どのは、

「間もなく敵の総攻撃が始まろう。今のうちに女や子どもは落ちのびよ」

と、内室方とそれぞれのお子方に武勇の家臣をつけて落ちて行かせた。

少辨御前と松千代丸君もあわただしい旅立ちになった。

今は亡き国司具教公に、

「近々戦が始まろう。万が一のことがあらば、姓名を変えてでも松千代丸を頼む。決して、北畠の血脈を絶やすまいぞ」

と、内々に耳打ちされていた少辨御前の兄家能は、

「我が所領、津留にお隠し申してくれ」

と、鳥谷尾石見守に二人を託した。

以下略

 

 

美杉村のはなし』では石見守が霧山城から具教の内室少辨御前と北畠の遺児を救い出した話になっています。

 

 

この霧山城から脱出した松千代丸は長じて母の姓鈴木具家を名乗り蒲生氏郷に仕えたと『美杉村のはなし』には載っています。

 

石見守が救出したのは田丸城の鶴女・昌教親子なのか

霧山城の少辨御前・鈴木具家親子なのか

 

どっちが本当?鳥屋尾石見守が二人いたことになってしまう

 

…私が思うに「北畠氏学講座」は鹿角の折戸氏の伝承、吉田さんの著書、そして『美杉村のはなし』に載っている話を上手に取り入れて、独自のストーリーを創作したのではないかと…

 

 

創作であったとしても、有馬さんが北畠の末裔であることを否定するものではありません。

 

有馬さんが末裔であるのは事実だとしても、「北畠氏学講座」の内容は創作の可能性があるということを私は言っています。

 

★吉田大悪才について

北畠家臣録」や「多芸録」には姓は藤原氏とあります。

吉田さんは著書『北畠暦紀』の中で吉田兼好の末裔だと書いていますが、兼好の末裔なら卜部氏ではないのかと…

先に紹介した『志摩海賊記』では

藤原氏(卜部氏)」というどっちつかずの表記をしていましたが…

 

吉田大悪才は兼好の末裔ではなく、後醍醐天皇の側近、吉田定房藤原氏)の末裔なのではないかと私は思うのですが…うーむ。

 

兼好のルーツは伊勢武者であるという説(『兼好法師』小川剛生著)もあるので…どうなんでしょう。

吉田さん本人が兼好の末裔だと書いておられるので、家に代々伝えられていたのは事実なのでしょう。

どちらにしろ凄い家系ですよね。

 

『志摩海賊記』によれば関ヶ原の時の伊勢中島の戦いに吉田氏(吉田悪才弥四郎)は出陣して九鬼氏を援けたそうです。その時の活躍は「山田中嶋軍記」に記されているそうです。

 

 

★霧山城から脱出したという北畠遺児について

 

美杉村のはなし』(1997)によれば霧山城から鳥屋尾石見守の手引きによって脱出したという鈴木具家(松千代丸)の息子が北畠八幡宮を創建した鈴木孫兵衛家次らしいです。

 

しかし、昭和35年発行の『美杉秘帖』では話がだいぶ違っています。

『美杉秘帖』掲載の「鈴木家歴(抜粋)」を一部引用します。↓

 

「北畠落城の時坂内兵庫守国司九世三位宰相中将具房ハ坂内御所ヲ逃レ、天正ノ乱ヲ奥ニ避ケ其ノ地ニ成長一子ヲ育テ、其ノ子賢ニ父ノ遺訓ヲ忘レズ具房卿ノ一男ニ生本国ノ一志◾️◾️◾️に住鈴木孫兵衛尉家次ト呼是即晴具四代ナリ(以下略)」

 

半世紀も経ってないうちに伝承の内容がずいぶん変わっています。

美杉秘帖に掲載されている話は

・霧山城ではなく坂内御所を脱出。

・脱出したのは具家(松千代丸)ではない

・坂内具義なのか北畠具房なのかよくわからない記述になっている。

・鳥屋尾石見守が救出した話は記述なし。

 

そもそも〝伝承〟というのはアヤフヤなものなので、気にすることでもないかもしれませんが…。

 

伊勢国司記略』に「多気記」を引用して

 

「政成の子息亀千代丸十二歳なるを家人早川傳五郎つれて立のき、備後國福山へ立退く。其後坂内子孫左衛門尉具家を以て尋ねられしが、薩摩國へ行きしとかや」

と書いてありました。

 

また『三重 匡盗り物語総集編』(昭和49年)P309に鈴木氏から編者への手紙の内容が紹介されており

具房の内室は、ここで病死。その子は成長して坂内左衛門尉具家となる。その子が鈴木孫兵衛家次である。

 と紹介されています。多気記の登場人物と同一人物なのでしょうか?

(『三重・国盗り物語』で紹介されている具家・家次親子の話もまた変容しているのですが省きます。興味がある方は図書館へgo)

 

 

美杉村のはなし』にある伝承は北畠政成の子息の話とゴッチャになって徐々に形成されていったのではないかと私は思うのです。

 

伝承とか言い伝えはアヤフヤなもので時と共に変容していくものですから。

 

※誤解を招かないように念のため言いますが、鈴木家が北畠の末裔であることを否定するものではありません。

北畠の末裔だという伝承が代々伝えられているのは事実なのでしょう。

 

★霧山城城代だったという北畠政成について

 

北畠政成という人物について、斎藤拙堂は以下のように考察しています↓

 

「按ずるに、此多気記は多気の瀧廣と云所の郷士鈴木長十郎が家に持傳へたる舊記の由にて、篠田賢治借り出して余に示しぬ。其内には誠しからぬ事も彼是打まじれど、舊傳の事もまヽあるべく、政成を始め多気にてありし事、此記の外に初見なけれは、原書を節略してこゝにしるし置く。且は政成と云人此書及び法名帳の外に見えず。此人を政具の弟、政義の孫、政勝の子なりとあれど、政義と云人系圖等に見えず。政勝は澤氏文書、阿坂浄眼寺文書に文明年中の下知状あり。材親國司幼年の頃後見したる如く見ゆ。此人文明年中の人なれば、天正四年迄は百年程なり。政成其子といはんは年代合はず。政勝の次今一代あるべし。歴名土代に北畠政能天文二十三年八月叙爵、永禄三年六月八日宮内大輔とあり。此人政成の父にてもあらんか。」

 

 

大雑把に現代風に言うと↓

 

〝鈴木長十郎の家にあった「多気記」は本当かわからないことも書いてあるけど、政成や多気の出来事を書いてある書が他にないから「伊勢国司略記」に載せといたよ。

政成という人物は「多気記」と「法名帳」以外に名が見当たらないよ。

政具の弟、政義の孫、政勝の子だって多気記には書いてあるけど、系図にないし年代が合わないよ。

北畠政能て人がいたけど、この人が政成のパパじゃないかな?〟

みたいな感じかな?

法名帳」とは「北畠御所討死法名」のことでしょうか?

だとしたら、「北畠御所討死法名」の最後の方に書かれていた「家次五代孫上多気村  北畠長十郎」と多気記の持ち主「鈴木長十郎」は同一人物ということ?

 

※最近の研究では政勝と北畠政郷が同一人物であることが明らかにされています。

とすると、政成が「政勝=政郷」の息子だというのは世代的に考えてますます疑問ですね;うーん。

 

Wikipediaの北畠政成の項目について

政成の妹・鶴女は北畠具房の室であるとWikipediaには書いてあるんですが、はて?何の資料にあるのか…?

私が知る限り資料がない…

うーむ、何か資料があるのだろうか?

 

小説『忍者烈伝ノ乱 天ノ巻』(稲葉博一 著)p47に

 

〝政成の妹である「鶴女」が、中の御所である北畠具房の室であった。〟

 

という記述があります。これは稲葉さんによるフィクション創作なのか、何か資料に基づくものなのか…?

 

…政成の妹だという伝承があるのでしょうか?

 

そういえば、具房の室って系図にないですね。「北畠氏学講座」では具房の正室は鶴女ということになっていますが。

 

 

 

しかし、鶴女が政成の妹だという資料はどこにあるんだ…?

 

追記

鶴女が政成の妹だっていうのも「北畠氏学講座」さんが発端ぽいですね。

 

鶴女は北畠政勝の娘だと北畠氏学講座では言ってます。

でも、拙堂も言ってるように政勝は年代が合わないんです。

鶴女が政勝の娘だとするとかなり高齢の妊婦さんですよ…

 

それと、鹿角の伝承・北畠昌教の母の名前は「鶴女」と伝わってるんでしょうか?

私はうっかり鹿角に「鶴女」と伝わってると本文に書きましたが、もう一度見直したら(ネットでわかる範囲内)単に「母」とされていて「鶴女」ではないです。

(本文は訂正しておきました)

 

昌教母・鶴女の名付け親は北畠氏学講座さんじゃないですか?

 

美杉村のはなし』の小辨御前が〝津留〟に逃げたから、そこから名付けたのでは?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

井上専正と北畠昌教※追記あり

  • 井上専正

 

でネット検索すると出てくる情報を簡略にまとめると、

 

  • 井上専正は北畠家臣で、織田信長との戦いに多数出陣し戦功をあげる。
  • 三瀬の変のとき、北畠具房の妻、鶴女を鳥屋尾石見守と一緒に田丸城から救出し、同じく家臣である吉田家にかくまう。
  • この時、鶴女は身籠っており吉田家で北畠昌教を出産。
  • その後、織田側から逃れるために井上専正は昌教を連れて本願寺を頼り顕如に弟子入りする。
  • 後に秋田の鹿角に専正寺を開く。
  • そして昌教を鹿角に呼び寄せる。
  • 昌教は津軽為信の客分になる。
  • 専正の娘が昌教の妻になる。

 

 

といったストーリーが語られていますが、何の資料を根拠に書いているのかわかりません。

どうも、ネット上の初出は先に書いた北畠氏について細かく書いているサイト「日本の歴史学講座」「北畠氏学講座」のようです。(私の調べた限りの見解です)

http://kitabatake.world.coocan.jp/kitabatake9.html

 

このサイトでは昌教の次男が折戸を名乗り、孫が有馬を名乗ったと主張しています。

 

 

織田信長との戦いに多数出陣し戦功をあげているのなら、勢州軍記などの史書や北畠氏に関する研究書に井上専正の名が出てきてもよさそうなのですが、出てきません。

何の資料が根拠なのか…

調べてみました↓

 

 

秋田県広報協会が1970年に発行した雑誌「あきた」通巻103号に

専正寺の縁起に関する文章が載っています。

f:id:sukoyaka1868:20230807204411j:image

専正寺に伝わる由緒巻物は重要文化財で、正徳年間にしたためられたものらしく、その内容が書かれていましたので一部引用します。↓

 

「当時ノ開基俗性ハ其昔信州高井群ノ城主隠岐源満実ノ末孫也(八万石)

井上味兵衛専正ト号ス

 

父ハ左衛門尉専忠トテ勢州国司北畠大納言具教卿之幕下二属シ武門繁栄ス

然ル二織田信長ノ謀略ニヨリ北畠ノ君臣乱レ、主ハ臣ヲ捨テ威勢強キ二随テ君臣共二信ヲ捨テ礼ヲ捨テ大乱ノ世トナリヌ

 

凡そ三界無安■如火宅ノ説ヲ今二見ルガ如シ、是ノ故二国司ノ家臣モ大二乱レ、家臣ノ多クハ信長ノ幕下トナリ、具教卿モ臣ノ為二空シク生害シ玉フ」と書かれている。

主君を討たれた幕下左衛門尉専忠は乱軍の中に討死、時に天正四年十一月二十五日。

  専忠の一子富之助専正は幼少の身で、母と共に難を免れ伊勢の国中西の里に縁者を慕って居住。

  母は富之助の成長を待ったが病を得て中西の里に空く終る。

  富之助は成長するにつれ上求菩提の志深く、父母の恩を報ずるには、出家の功徳にまさるものなしと決意。

 諸国を巡回して有縁の知識を尋ね、要法を聴き歩いたが、諸国大乱の折柄満足すべき師にめぐり逢い兼ねたのである。」

 

〜引用を終わります。

 

三瀬の変のとき、井上専正は幼少の身だったというのです。

 

織田信長との戦いに多数出陣、具房室を救出した」というネット情報はなんなのでしょう?

 

由緒巻物によれば、三瀬の変の後、専正少年は伊勢の中西に母と暮らし、のちに母は病死。成長した専正は父母の恩に報いるため出家することを決意し、諸国を巡回します。

 そして京の本願寺顕如に出会ったようです。

   教順という法名をもらい、後に奥州花輪の里に下りて、天正17年、専正寺を建立したとのことです。

 (ちなみに北畠家臣録」に「井上丹波守」という名があるので、専正の父か祖父なのではないかと思います。 )

 

この話に「北畠昌教」や「鳥屋尾石見守」の名は出てきません。本願寺に入ったときにも「昌教」を連れて行ったということも書いてありません。

 有馬氏のことも載っていませんでした。ネット上にある専正と昌教にまつわるエピソードは一体なんなんでしょうね。

 

なぜネット上では織田信長と戦ったり、具房室を救出したストーリーが確定した史実であるかのような情報が出回っているのか…

 

ネットの影響力はすさまじい 

 

 

このブログを読んで、興味をもたれた秋田県在住の方、または国会図書館近くにお住まいの方、『秋田県史』『鹿角市史』『南部叢書』などの資料を調べてみてください。

 

 

経済的にも時間的にも私はこれ以上調べることができません涙。

 

できたら、コメント欄を通じて私に教えてください。あつかましくてごめんなさい。

 

 

追記

昭和54年の「広報 かづの」146号をネット上で見つけました。

f:id:sukoyaka1868:20230807204226j:image

その中に専正寺と北畠昌教に関する記事がありました。

 

この記事では、現在ネット上で流れているように専正が鹿角に北畠昌教を呼び寄せたという話になっています。

しかし、昌教が本願寺の庇護を受けたことは書いてありますが、専正が本願寺に昌教を連れて行ったという話ではないようです。

 

また、専正が織田信長相手に戦ったという話と田丸城から具房室を救出した話は書いていません。昌教が津軽の客分になったことも書いていません。

ちなみに、有馬氏のことも書かれていません。

 

 

追記

1998年の「広報  かづの」606号に北畠昌教の墓や居住していたと伝わる館に関する記事がありました。

f:id:sukoyaka1868:20230807204038j:image

この記事は昌教についてかなり詳しく書かれています。

 

が、この記事にも井上専正が織田信長相手に戦ったという話と田丸城から具房室を救出した話は書かれていません。昌教が津軽の客分になった話もありません。有馬氏のことも出てきません。

 

 

これまで 調べてみてわかったことを私なりにまとめると、

 

・秋田の鹿角に北畠の遺児が移り住んだという〝伝承〟があったのは事実。

そして北畠の遺児の子孫は折戸を代々名乗っている。

・伊勢出身の井上専正がなんらかの形で関わっていた可能性は大いにある

・しかし、井上専正が田丸城から北畠昌教の母を救出した話と織田信長との戦に出陣した話はネット上の創作…かも?

・専正の娘が昌教の妻になった話はどこ…?

・有馬氏の話もどこ…?

・北畠昌教が津軽為信の客分になったという話もソースがよくわからない… 

ということです。

 

私が思うに、北畠氏学講座というサイトが鹿角の伝承と三重県美杉村(伊勢北畠の本拠地)の伝承をミックスした「お話」を作り、それがネット上で広まったというのが妥当なところではないでしょうか…

 

 

またまた追記

 

井上専正と北畠昌教について書いてあるページを見つけました。

 

http://www2u.biglobe.ne.jp/~gln/88/8871/88716101frame.htm

 

参考  鹿角市発行「陸中の国鹿角の伝説」

 

と書いてあります。それを読みたい…それの参考文献知りたい…参考文献の参考文献を知りたい

 

リンク先のページにも専正が織田信長と戦った話と田丸城から具房室を救出した話は書いてないです。有馬氏の話もありません。

田丸城から救出したのではなく、後に都にいた昌教を連れてきたという話になっています。

 

 

やはりネット上にある専正が織田信長と戦った話と田丸城から救出した話は何の資料・史料を根拠に書かれているのか不明です。

 

 

 

たぶん最後の追記 H30.4.24

図書館で、美杉村の北畠神社の宮司だった宮崎有祥さんの著書(『南朝と伊勢國司』昭和43年)を読んできました。北畠氏の末裔に関することが書かれている本です。

「直系の子孫があるとは考えられませんが」と前置きしつつ、末裔を名乗る方々に対して最大限の敬意をはらった文章です。

 

著者の宮崎さんは北畠の末裔の方に会うために東北に行ったのです。

著書の一部を引用します。↓

 

〝この名族の血統を伝える人々が意外に多いことに驚かされます。特に東北地方と北畠氏との因縁は浅からず、彼地へ行って、それらの旧家を訪ね、家系を調べて、子孫として由緒ある家門に生を享けたことを自覚し、心密かに誇りとせられているのを見て(以下略)〟

 

 

 

そしてこの本には

秋田に移り住んだ北畠昌教の末裔の折戸さん宮崎さん、それから専正寺の住職の未亡人、先々住未亡人の四人が一緒に写った写真が掲載されていました。

専正寺先住未亡人と折戸さんが一緒に写っているということは…専正寺にも北畠昌教に関する伝承があったってことかな?

本文では専正寺について言及がないので、そこの部分はよくわからないです。

ところで、写真に写っていた北畠昌教の末裔・折戸三郎さん。この方の息子さん、第二次世界大戦で出征し、ルソン島で亡くなったそうです。

一人息子だったそうです…

ペン書きで「屍をば敵に渡さじ多気に行く」

と遺書を残して、割腹したそうです。

 

息子さんは先祖のゆかりの地である多気(現美杉町)に一度は行ってみたいと思っていたのでしょう。

 

 

興味本位で井上専正と北畠昌教について調べ始めたのですが、まさかこんな悲しい話を知ることになるとは…

 

息子さんの魂が安らかでありますように。

 

 

それから、もう一つ、この本には東北と北畠に関わる興味深い話が書かれていました。

 

昭和三十四年に農林大臣三浦一雄さんが北畠神社を参拝したそうです。

農林大臣の参拝に宮崎さんは驚き、訳を聞くと三浦さんは

「私の郷里は青森ですが、何代か前に三浦一族を率いる豪族となって津軽藩に入っていますが、元はといえば伊勢北畠氏から出ています。私は昔から、一度はぜひ祖先発祥の地である多気の地を訪れて祖霊を拝したいと念願していましたが、今日図らずもそれを果たしたので、こんな嬉しいことはありません。」

と、答えたそうです。

 

三浦さんはその二、三年後に亡くなってしまい、詳しい話を聞く機会を失ってしまったとのこと。

 

東北と三重県はすごく離れているけれど、三浦氏のご先祖が移り住んだということは、伊勢北畠氏と浪岡北畠氏の交流が続いていたということ?

 

浪岡北畠氏が滅んだ後も、一族や家臣の末裔が東北に暮らしていたかもしれないし、つながりはあった…?

 

北畠昌教が東北に移り住んだという伝承もそういう縁があったのかもしれませんね。

※ただし、昌教が「津軽の客分になった」という話は真偽不明です。

 

 

ちなみに、宮崎さんの著書にも井上専正が織田信長と戦った話と田丸城から昌教母を救出した話は載ってませんでした…。

有馬北畠氏についてもやはり載っていませんでした。

 

 

 

追記 H30.5.13

 

北畠家臣帳だけでなく多芸録にも「井上丹波守」の名がありました。

 

「井上丹波

姓源氏大和宇陀郡人後移小倭木造従騎」

 

井上一族は元は大和宇陀郡の人ということは

信濃井上氏は信濃から大和に移った後に伊勢に移ったのでしょうか?

(北畠は大和宇陀郡にも影響力ありました)

 

また『多芸志略 三巻』(梅原三千)によると

 

「井上丹羽守

源氏射和住田丸寄騎」

 

とありました。これは昭和三年に斎藤拙堂所蔵の分限帳を写したものです。

行書体で書かれているものなので、私が読み間違えてる部分もあるかもしれません。あしからず。

 

それと少し話がそれるかもしれませが、『多気史蹟』(梅原三千)に井上円了が多芸(多気)を訪れたという話が載っていました。

なぜあの井上円了が?(まさか妖怪退治に⁈)

 

哲学堂創設のために諸国を巡講していて大正五年二月に多気の小学校で講演したそうです。

 

気になったのでググったら井上円了信濃井上氏の子孫だという説を紹介する論文を見つけました。

井上円了とその家族 生家の慈光寺と栄光寺を含めて」

三浦節夫著

井上円了センター年報15号

 

信濃井上氏の出自だからといって

井上円了の家系が伊勢北畠と何か関係は…まぁ関係ないでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

多芸録※追記あり

千代御前が三瀬の変で亡くなったとする史料が『北畠御所討死法名』以外にもあったので紹介します。

 

『多芸録』

 

図書館で写本を見てきました。

いつ頃書かれたものなのかわからないんですが…

 

多分、江戸中期以降かな?て思います。

信雄が寛永7年に亡くなった事を記述しているので、寛永7年以降に書かれたのは確実です…多分。

 

勢州軍記に構成が似てるなぁと思うところもあるので、もしかしたら勢州軍記を参考にしながら書かれたものかもしれない…多分。

 

多分を繰り返しているのは自信がないからです、はい。

 

この多芸録にもやはり「雪姫」の文字はなく、「千代前」とありました。「千代御前」のことですよね。

 

では、千代御前が出てくる箇所を引用します。

 

亦若于人此日殺夫人千代前法諡日蓮照院殿妙元大姉

 

 

よ、読めない。いや、読める気がするけど自信ない。

頑張って読んでみると…↓

 

また、ある人が言うには、この日千代御前も殺された。法名は蓮照院殿妙元大姉。

 

 

正解?正解?…違うよね…

なんか、違う気がする…。

 

学生時代もっと漢文の勉強しときゃよかった(T-T)

 

うー、わからん。

 

とりあえず、父具教と同じ日に殺されたと書いてあるということはわかります。

 

『北畠御所討死法名』では三日後の二十八日としていたのとは違います。

 

この多芸録は勢州軍記を参考にしたんではないかと言いましたが、では勢州軍記は千代御前の事をどう記述しているかというと…

 

信雄と結婚したということ以外、記述がないんです。

 

三瀬の変での千代御前の動向も一切記述がありません。

 

勢州軍記の著者神戸良政(能房)は彼の父親が書き遺したものをベースに

地元の古老たちに聞き取り調査をしたり諸家に伝わる書物を取材して執筆したそうです。

 

勢州軍記では千代御前に関する記述はほとんどありませんが、神戸良政は後に伊勢記を編纂し、信雄室は天正十九年に伊予で亡くなったと記しています。つまり、三瀬の変の後も千代御前は生きていたんです。

 

追記 H30.5.19

「北畠御所討死法名」について

具教の三十三回忌を子孫がとりおこなった際に書かれたもの

と書きましたが、違うんじゃないかなと思うようになりました。

三十三回忌の時ではなく、もっと後の時代、江戸中期以降に書かれたのではないかと思います。

そもそも三十三回忌の法要そのもの自体なかったんじゃないかと疑っています。

「北畠御所討死法名」は史料として信憑性はあるのか…?

また詳しく調べたいのですが、忙しくて…

 

調べたらまたブログに書きます

 

 

 ▲追記その2▲

多藝録の著者は幕末の学者沢熊山らしいということがわかりました。

 

 

③雪姫伝説には元ネタがあった?

地元につたわる雪姫の伝説。

 

本やブログによって細かい設定は違うのですが、こんな感じの話です↓

 

「三瀬の変が起きたとき、雪姫は捕らえられ、東御所の桜の木に縛り付けられる。

どこからともなく白い狐がやって来て雪姫を助ける。」

 

 

東御所は北畠氏の本拠地霧山城の近くにあった別邸です。

 

先に紹介した史料『北畠御所討死法名』では田丸城で亡くなったとしています。

 信雄は北畠の家督を継いだ後、田丸城に移りました。妻である雪姫も田丸城(もしかしたら千代)に移ったのではないでしょうか。

 

 しかし、1997年に出版された『美杉村のはなし』では雪姫はちょうど「里帰り中」だったということになっています。

 

この本は地元の方々に伝わる話を聞いてまわり執筆されたものらしいです。

 (ちなみに雪姫伝説以外にも興味深い話がたくさん載っています。)

 

この本にある雪姫伝説の記述で気になるところがありました。

一部引用↓

 

“もがく雪姫さまを御所の庭の桜の木に縛りつけたあと、御所に火を放つと敵は引き揚げて行った。

(中略)

雪姫さまはひとり、声を上げて泣いた。

と、そのとき、どこからともなくねずみが一っぴきあらわれたと思うと、雪姫さまの膝に駆けのぼり、みるまにカリカリと縄を噛み切った。

「ねずみよ、ありがとう」

雪姫さまは礼をいうと、近くの山の中に逃げ込んだ。”

 

この後、雪姫は自害をしてしまいます。

 

私は引用箇所を読んだとき、

「ん?ねずみ?キツネじゃなかったの?」

と気になりました。

 

「雪姫」

「桜の木」

「ねずみ」

 

…これは歌舞伎の「金閣寺だ!

 

雪姫を助けたのが「ねずみ」になっているのが地元の方から聞いた話そのままなのか著者によるアレンジなのかはわかりません…。

 

でも、地元の方に「ねずみ」と伝わっていたとしたら…

 

雪姫伝説の元ネタは「金閣寺」なのではないでしょうか?

 

 歌舞伎の金閣寺についてググってみたら、元は文楽だったんですね。

 作者は中邑阿契。

初演は1757年。江戸中期ですね。

三瀬の変から180年以上経っています。

 

中邑阿契が雪姫伝説をヒントに創作したのか、

それとも「金閣寺」が元になって伝説ができたのか…うーん。

 

ここからは私の妄想です。史料がないので妄想としか言えません。

 

江戸時代、いわゆる素人歌舞伎 とか地芝居が流行りました。

 歌舞伎の演目を地元の農民が自分たちで演じて村のみんなに見せるんです。

 

津市周辺で地芝居があったのかどうかわかりません…

 でも、もし、江戸時代、津市周辺で「金閣寺」(祇園祭礼信仰記)を地元の農民が演じていたとしたら…?

 

松永大善→織田信長

雪舟の孫娘雪姫→北畠具教の娘雪姫

 

と、地元向けにアレンジして上演したのでは?

 

そして北畠の悲劇の歴史と混ざっていつしか雪姫伝説となっていったのでは…

 

はい、妄想です。こじつけです。

 

でも、「金閣寺」が元になったとすると千代御前がなぜ雪姫と呼ばれているのかも納得できるんですよね。

 

 

 

①「雪姫」の名は史料にない…?

雪姫/千代御前が三瀬の変で死んでいないと推測できる史料を見ていきましょう

 

http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=096-0185&PROC_TYPE=ON&SHOMEI=織田信雄分限帳&REQUEST_MARK=96-185&OWNER=国文研鵜飼&IMG_NO=2

 

 

「五百貫文     

        小牧ノ内中村郷  此外六百貫文南イセ分相違

                          御内様         」

 

 

織田信雄分限帳」に「御内様」とあります。ここにある御内様が信雄正室の北畠具教娘なのではないかと、ある方のブログで指摘されていました。

 

織田信雄分限帳 は群書類従にも収録されています)

 

分限帳とは家計簿みたいなもので、家中の誰それにいくら与えているとか記してあるんですね。

こちらの「御内様」はなんと五百貫!

現代の価値にするといくらなのか正確にわからないんですが、セレブじゃないですか?御内様。

 

よく見ると

「小牧ノ内中村郷  此外六百貫南イセ分相違」

とあります。

「小牧と南伊勢にあった六百貫の代わりに」てことかな?

御内様はかつては南伊勢に領地を持っていたんでしょうか。

ちょっと訳に自信がないんですが(;´д`)

▲2021年2月18日修正しました。織田信雄分限帳における「相違」とは「その土地の代わりに」という意味があるようです。▲「相違」という語の用法の勉強不足で間違った訳を載せていました。申し訳ありません。

 

ちなみにこの「織田信雄分限帳」が書かれたのはいつ頃かというと天正11〜13年頃ではないかと。(鶴舞中央図書館のサイトに推定年代載ってました)

 

三瀬の変は天正四年の出来事ですから、「御内様」=雪姫ならば、三瀬の変で死んでいないことになります。

 

次の史料を紹介しましょう。

群書類従所収北畠系図

に具教の娘として

内大臣信雄室  勢州大野城主参議秀雄母 文禄元年七月六日於予州道後逝去     

法名天応」

とありました。

 

群書類従は江戸時代に塙保己一が編纂した史料集です。

全国の名家や神社やお寺に残っていた史料を写させてもらい収録したものです。

 

この北畠系図は、どこにあった系図を写させてもらったのでしょう?

 

おそらく、おそらくですが、

三重県松阪市にある北畠氏ゆかりの浄眼寺にあった系図を写させてもらったのではないかと思います。浄眼寺文書の村上源氏北畠系図と内容が同じなので。

*後日見てみたら、違う部分もいくつかありました。浄眼寺の系図を写したという私の説は微妙です・・・ごめんなさい (H30.7.6 記 )

 

この系図で注目すべき点は「文禄元年に伊豫で亡くなった」というところですね。

三瀬の変があった天正四年は西暦1576年、文禄元年は西暦1592年。

  

雪姫は三瀬の変で死んでいないことになります。

 

では次に、雪姫が三瀬の変で死んだとする史料を紹介します。

 

『北畠御所討死法名

 

これは三瀬の変から33年経った時に書かれたものです。※このことについては追記その2を見てください。

 

 

北畠具教および一族の三十三回忌の法要を末裔(鈴木家次、三瀬の変のとき逃げ延びた男児の息子だという)が慶長13年に営んだのです。

松阪城主古田助成から法事金をもらったと書いてあります。

ちなみに、鈴木家次は北畠神社の前身である北畠八幡を創建したという言い伝えがあります。

※鈴木家次に関しては『美杉村のはなし』を参考に書きました。

 

 

 

 

 

『北畠御所討死法名』には三瀬の変でなくなった人たちが記載されています。

 

『北畠氏の哀史』という本に全文翻刻が載ってました。

図書館で閲覧してきました。

 

雪姫について書いてあるのでしょうか…

 

「具教卿息女則平信雄室 同名千代御前

   天正四  十一月廿八日 一門生害ヲ聞落ルイ、ナノ女不成於田丸城生害

蓮照院不先妙元大姉」

 

具教が亡くなった三日後に田丸城で殺されたとしています。

※調べたら生害には自害という意味もあるそうです。殺されたか自害したかのどちらかですね。

 

三瀬の変で死んだのか死んでないのか、どっちの史料を信じたらいいの?

 

では、次に江戸時代末期に編纂された『系図纂要』を見てみましょう。↓

 

 「女 千代御前 内大臣信雄公室

    天正四年十一ノ廿八自殺

    蓮照院妙元      

         一本文禄元年七ノ六

   死于伊輿道後

     法名天應      」

 

結果は…

伊豫で亡くなった説と三瀬の変で亡くなった説

両論併記!

 

 

ここまで見てきて、おや、と思ったのは

 

どこにも「雪姫」という文字が史料にはないということ。

 

「千代御前」「北畠具教女」「御内様」「信雄室」であって「雪姫」とは書かれていないのです。

 

『勢州軍記』『北畠物語』『伊勢国司略記』なども見ましたが「雪姫」とは書かれていませんでした。

 

 

史料には「雪姫」という名はありませんでした。

信雄の妻、千代御前は何故「雪姫」と呼ばれているのでしょう。

 

図書館で見つけた地元の小学校の卒業記念の文集にヒントがありました。

 

昭和の終わり頃に書かれたものです。

卒業記念に六年生のみんなで地元の歴史について本で調べたり村の大人に訊いたりしてまとめたらしいです。

 

一部引用します↓

 

“その時、織田氏が千代御前だけいけどりにして、東御所の桜の木にくくりつけておきました。そこへ一ぴきのきつねがきて、つなをかみきり、千代御前をつれて川上の方へにげていったのです。それで、その桜は今でも「雪姫桜」とよばれ、六田に残っています。なぜ「雪姫桜」かというと千代御前のはだが雪のように白かったので、「雪姫桜」とよばれるようになったのです”

 

この文章から察するに「雪姫」は後世の地元の人たちがいつ頃からか呼ぶようになったニックネームと言えるのではないでしょうか?

 

 

追記

北畠神社の宮司だった宮崎有祥さんの『南朝伊勢国司』p191~192に

 

「この頃茶筅丸は元服して北畠三介具豊と名乗り、二十万石を領して具教卿の二女(伝記の雪姫はこの人か)と婚姻の式を挙げました。」(傍線筆者)

 

とありました。

「二女」と書いてあるのも気になりますが、それよりも「伝記の雪姫はこの人か」という表現が気になります。「雪姫」と書いてある史料とか書物があるということでしょうか?

残念なことに参考文献が書いてなかったので、よくわからないです。

もしかしたら、個人所蔵の文書かも?

 

追記その2    H30.5.17

本文で「北畠御所討死法名」は三瀬の変から33年後に書かれたものだと書きましたが、ちょっと、疑問に思うようになりました…

 

「北畠御所討死法名」の最後の方にある慶長13年という記述を見て私は33年後に書かれたものだと信じて本文に書いたのですが…

 

もっと後の時代に書かれたものではないかという疑問がわいてきました。

法事金をくれたという松坂城主古田助成についても疑問に思うことがあり…

 

「北畠御所討死法名」の最後の方、載せておきます(旧字・異体字を現代の字に一部変えました)

 

「右具教卿三十三回忌為菩提当国松坂之城主古田助成殿ヨリ右為法事金ト銀子三百目ヲ家次二給ル也

 慶長十三歳 戌甲 十一月十九日ヨリ廿五日迠当所大正庵ニテ法事行者之

           大正庵浄誉上人紋仁和尚代之

 

伊勢国司従二位大納言北畠晴具四代末孫

    上多気小津村   鈴木孫兵衛家次改是ル

    同所立川村北畠家人芝山小平太吉秀同改ル

    家次五代末孫上多気村 北畠長十郎           」

 

最後の最後に「家次五代末孫」とありますが、これは晴具から数えて五代なのか、家次から数えて五代なのか・・・・

 

家次から数えて五代なら、この「北畠御所討死法名」が書かれたのは時代が慶長十三年よりだいぶ後の時代になると思います。

 

また慶長13年時点で松坂城主は本当に古田助成という人物だったのかという疑問があります。

調べてみないとわかりませんが、この疑問を抱くようになってから「北畠御所討死法名」は史料として信頼できるのか?と考えています。

 

 

 

 

 

織田信雄の妻について

  織田信雄正室、北畠具教の娘。 信雄の妻についてググると三瀬の変に遭って死んだと出てくる一方、生きて信雄と添い遂げたとも出てきます。

 一体、どっちなの?

 

▶︎三瀬の変とは

天正四年11月25日(1576年12月15日)に伊勢国三瀬御所の北畠具教や同国田丸城に招かれていた長野具藤らが襲撃され討死した事件である(Wikipediaより引用)

    三瀬の変は簡単に言うと、信雄が自分の妻の父親および一族を亡き者にして伊勢を支配した…嫁の実家乗っ取り事件です。

 

この事件で信雄の妻は一族と共に死んだのか、それとも仇である夫と共に生きたのか調べてみました。

 

①雪姫(千代御前)が三瀬の変で死んだとする史料

 

『北畠御所討死法名

 

 これは三瀬の変から33年経った時に書かれたものとされています。

 北畠具教および一族の三十三回忌の法要を末裔(鈴木家次、三瀬の変のとき逃げ延びた男児の息子だという)が慶長13年に営んだのです。

 

松阪城主古田助成から法事金をもらったと書いてあります。

 

ちなみに、鈴木家次は北畠神社の前身である北畠八幡を創建したという言い伝えがあります。

 

※鈴木家次に関しては『美杉村のはなし』を参考に書きました。

 

『北畠御所討死法名』には三瀬の変でなくなった人たちが記載されていて、 『北畠氏の哀史』という本に全文翻刻が載っています。

 

 雪姫(千代御前)について書いてあるのでしょうか…?

 

具教卿息女則平信雄室 同名千代御前   天正四  十一月廿八日 一門生害ヲ聞落ルイ、ナノ女不成於田丸城生害蓮照院不先妙元大姉

 

 具教が亡くなった三日後に田丸城で殺されたとしています。

 

※調べたら生害には自害という意味もあるそうです。殺されたか自害したかのどちらかですね。

 

では次に、雪姫(千代御前)が生きていたことを示す史料を見てみます。

 

②三瀬の変で死なずにその後も生きていたとする史料

 

織田信雄分限帳』という史料があります。

http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=096-0185&PROC_TYPE=ON&SHOMEI=織田信雄分限帳&REQUEST_MARK=96-185&OWNER=国文研鵜飼&IMG_NO=2

 

 

 五百貫文    

  小牧ノ内中村郷  此外六百貫文南イセ分相違  御内様         

 

 

 「織田信雄分限帳」に「御内様」という人物が記されています。この「御内様」が信雄正室の北畠具教娘であろうと、あるブログ様で指摘されていました。

 (織田信雄分限帳は群書類従にも収録されています)

 分限帳とは家中の誰それがいくら持っているとかそういう記録みたいなものです。

 

「御内様」はなんと五百貫!

 

現代の価値にするといくらなのか正確にわからないんですが、セレブじゃないですか?御内様。

 よく見ると

 小牧ノ内中村郷  此外六百貫南イセ分相違

 

とあります。

 

「小牧と南伊勢にあった六百貫の代わり」てことかな?

 ちょっと訳に自信ない(;´д`)

 

▲2021年2月18日修正しました。織田信雄分限帳における「相違」とは「その土地の代わりに」という意味だそうです。▲「相違」という語の用法の勉強不足で間違った訳を載せていました。申し訳ありません。

 

 

御内様はかつては南伊勢に領地を持っていたんでしょうか。

 ちなみにこの「織田信雄分限帳」が書かれたのはいつ頃かというと天正11〜13年頃ではないかと。(鶴舞中央図書館のサイトに推定年代載ってました)

 三瀬の変は天正四年の出来事ですから、「御内様」=雪姫(千代御前)ならば、三瀬の変で死んでいないことになります。

 

 

次の史料を紹介しましょう。

 

群書類従所収北畠系図に具教の娘として

 

内大臣信雄室  勢州大野城主参議秀雄母 文禄元年七月六日於予州道後逝去    法名天応

 

とありました。

 

三重県松阪市にある北畠氏ゆかりの浄眼寺にあった系図にも「内大臣信雄室」として同じ文章が載っています。また江戸時代初期に幕府主導で編纂した系図寛永家系図」にも同じようなことが書いてあります。

 

これらの系図で注目すべき点は「文禄元年に伊豫で亡くなった」というところですね。

 

三瀬の変があった天正四年は西暦1576年、文禄元年は西暦1592年。

 

 雪姫は三瀬の変で死んでいないことになります。

 

では、もうひとつ、確実に雪姫(千代御前)だと断定はできないのですが、おそらく雪姫のことであろう史料があります。

天正六年、徳川家康が「玉丸御局」という人物に宛てた朱印状があります。

「玉丸御局」とは何者なのか?

三重県史資料編は「玉丸御局」とは田丸城の留守をあずかる信雄の妻、雪姫ではないか?としています。

もし、この人物が雪姫ならば、彼女は北畠の女として外交をこなしていたということではないでしょうか?

悲劇のお姫様というだけではなく、立派に役目をつとめるファーストレデイとしての一面が見えてくるような気がします。

 

 

③死んだのか?生きていたのか?どっち?

 

では、次に江戸時代末期に編纂された『系図纂要』を見てみましょう。↓

 

 女 千代御前 内大臣信雄公室天正四年十一ノ廿八自殺蓮照院妙元      

一本文禄元年七ノ六死于伊輿道後法名天應      

 

 結果は…

 

伊豫で亡くなった説と三瀬の変で亡くなった説

 両論併記!

 

 

ここまで見てきて、おや、と思ったのは

どこにも「雪姫」という文字が史料にはないということ。

 「千代御前」「北畠具教女」「御内様」「信雄室」「玉丸御局」であって「雪姫」とは書かれていないのです。

 『勢州軍記』『北畠物語』『伊勢国司略記』なども見ましたが「雪姫」とは書かれていませんでした。

  信雄の妻は何故「雪姫」と呼ばれているのでしょう。

  図書館で見つけた北畠の本拠地美杉村の小学校の卒業記念の文集にヒントがありました。

 昭和の終わり頃に書かれたものです。 卒業記念に六年生のみんなで地元の歴史や伝承について本で調べたり村の大人に訊いたりしてまとめたらしいです。

 この文集に雪姫(千代御前)の伝説について書かれていました。

  三瀬の変のとき、雪姫は捕らえられ桜の木に縛り付けられ、どこからともなく白い狐がやってきて縄をかみきり、姫を逃がしてあげたという話です。

 一部引用します↓

 その時、織田氏が千代御前だけいけどりにして、東御所の桜の木にくくりつけておきました。そこへ一ぴきのきつねがきて、つなをかみきり、千代御前をつれて川上の方へにげていったのです。それで、その桜は今でも「雪姫桜」とよばれ、六田に残っています。なぜ「雪姫桜」かというと千代御前のはだが雪のように白かったので、「雪姫桜」とよばれるようになったのです

 この文章から察するに「雪姫」は後世の地元の人たちがいつ頃からか呼ぶようになったニックネームと言えるのではないでしょうか?

 ところで、この雪姫伝説は歌舞伎の金閣寺の話によく似ています。私が思うに、雪姫伝説は江戸時代に歌舞伎の影響を受けて出来上がった伝説なのではないかと。 

 

④やっぱり生きていたと思います

 三瀬の変で雪姫は死んでいないと思います。

 北畠系図織田信雄分限帳といった史料がありますし、それに…雪姫(千代御前)が三瀬の変で死んだとする史料「北畠御所討死法名」はちょっと信憑性があやしいと考えています。

 『北畠御所討死法名』について私なりの見解をまとめています↓

sukoyaka1868.hatenadiary.jp

『北畠御所討死法名』は鵜呑みにしてはいけない史料だというのが私の考えで、雪姫が三瀬の変で死んだというのも根拠がないのではないか、と。

 

そして何より、

 

信雄の嫡男・秀雄は天正11年生まれです。秀吉に養女に出した小姫が生まれたのは13年(あるいは14年)です。

秀雄と小姫の母は、「北畠具教女」なのです。(寛政譜他より 坪内定益本織田系図は秀雄の母を「伊勢国司具教女」、鈴木真年本は「源具教の女」と記す)

 天正四年の三瀬の変で死んでいたとしたら計算が合わない…

 

具教の他の娘(千代御前の姉妹)を継室にして生ませた可能性も考えましたが、それはあり得ないと思います。

系図や他の文献を探しても具教の他の娘に信雄の継室になった女性はいません。

そして信雄の継室は寛政譜では木造具政(北畠具教の弟)の娘、織田家雑録では津田長利の娘とされています。

木造具政の娘は信良を生んだ女性です。出産時期を考えると、秀雄、小姫を生んだ女性とは別人であるのは明らかです。

また津田長利の娘のことだとするならば、なぜ「北畠」具教女と記されたか説明できない。

 

では秀雄、小姫を生んだ女性は誰か?

北畠の当主でもあった信雄の嫡男を生んだ女性は北畠の嫡流の女性だったはず。

と考えると、やはり秀雄、小姫の母は千代御前(雪姫)なのです。

 

 

 ⑤生き続けたとして、いつ亡くなったのだろう?

先の記事で紹介した北畠の系図では 「文禄元年七月六日伊豫道後で亡くなった」ということが記されていましたが、「文禄三年」だという史料もあるそうです。

 織田家雑録』に高野山の記録から「天応妙性大禅定尼信雄室文禄三年七月六日」と採録しているそうです。(渡辺江美子氏「甘棠院殿桂林夫人―豊臣秀吉養女小姫君―」より)

 しかしこれは渡辺江美子氏によると「この年紀は大祥忌(3回忌)にあたって位牌を納めた日を示すものであろう」とのこと。やはり文禄元年に亡くなったのでしょうか。

 

 ところで、雪姫(千代御前)の最期の地である伊予道後。信雄の隠遁先です。夫婦そろって伊予道後に行ったということですね。

 そして雪姫が亡くなった文禄元年といえば、信雄が伊予を出て名護屋に入った年です。

 夫である信雄は妻の最期をみとってから伊予を発ったのでしょうか? 

 それとも、妻を伊予に置いて去ってしまったのでしょうか?

 

 雪姫が亡くなった年についてモヤモヤとした思いを抱えていたある日、

「信雄の室は天正十九年に亡くなった」という情報を見つけました。

 

天正十九年だとしたら、信雄は妻の最期を見届けたことになります。

 

国文学の研究をされている勢田道生さんが「神戸能房編『伊勢記』の著述意図と内容的特徴」という論文を書かれていまして

 

  •  神戸能房(勢州軍記の著者)が編纂した『伊勢記』で「北畠具教の娘、信雄室が天正十九年に亡くなったこと」について言及されていること
  •  和歌山県の長覚寺に蔵されていたという北畠源氏系図東京大学史料編纂所のサイトで見ることができること

ということを知ることができました。

 

 

さっそく、長覚寺の「北畠源氏系図」を見てみました↓

 

 具教の子として

 

 女子 内大臣信雄公室 具房為子参議秀雄母 於伊豫卒 天正十九年月日

 

 

また、具房の子として、信雄の隣にも記されていました。雪姫(千代御前)は兄具房の養女になっているので、二人は夫婦であり兄妹(姉弟?)でもあるのですね。

 

女子  内大臣信雄室 實具教卿女天正十九年 於伊豫薨 秀雄信良等母也

 

ちなみに、兄具房も三瀬の変で死なずに生きています。生かされた理由は「信雄の養父だから」です。それを考えると雪姫(千代御前)も「正妻だから」生かされたと説明できます。

 

 

そして、もうひとつ『伊勢記』も見ました。(愛知県の蓬佐文庫にありました)

 

天正十八年条に

 翌年織田信雄自鴉山被移伊豫御臺薨伊豫

 

とあり、また

 天正十九年条に

 五月 織田信雄北方薨 伊豫国  

 

 とありました。

 

 『伊勢記』では雪姫(千代御前)が亡くなったのは天正十九年の五月です。

 

娘の小姫が亡くなったのは天正十九年七月ですから、もし『伊勢記』の記述が正しければ、実母のあとを追うようになくなったのですね。

▲追記

神戸能房編『伊勢記』において、本能寺の変の直後、信雄の妻が登場します。おそらく雪姫(千代御前)のことだと思われます。『伊勢記』は江戸時代の編纂なので信憑性はよくわかりません。しかし、執筆時の神戸能房の認識では雪姫(千代御前)は三瀬の変で死なずに生きていたということでしょう。なんらかの文献、あるいは口伝で雪姫(千代御前)は生きていたと伝わっていたからではないでしょうか??

▲追記▲

近衛信尹の雑記として伝わる『古今聴観』によると信雄は天正十九年五月二日時点で堺にいたようです。(伊予に行く信雄を見送るために信尹が堺に赴いたと考えられるとか)参考:柴裕之氏「織田信雄の改易と出家」より

天正十九年五月に雪姫(千代御前)が亡くなったというのはやはり『伊勢記』の誤伝なのでしょうか? 

『古今聴観』に書かれていること、『伊勢記』に書かれていること双方を信じて考えると、雪姫(千代御前)は伊予に入って数日~数週間で亡くなったことになってしまう(;_:)

うーん、やはり『伊勢記』の「天正十九年五月」というのは誤伝であって系図にあるように「文禄元年七月六日」に亡くなったというのが事実なのでしょうか?「七月六日」という具体的な日付がわかっている系図の方が『伊勢記』よりも信ぴょう性は高い気がします……。

文禄元年に亡くなったとして想像するならば、雪姫(千代御前)は晩年を伊予で夫とゆっくり過ごせたことになりますね……。でも、最期は? 最期は夫に看取ってもらったのか?? うーん、わかりません(;_:)

 

▲さらに追記

『竹田家譜』に医師の竹田定加が信雄の「御女房衆」を診察したという記録があります。これは天正13年2月6日の記録だと比定されています。研究者の先生方はこの「御女房衆」のことを「信雄の妻」だとしています。

Wikipediaではこの女性を信雄の「継室」としていますが、私は正室・北畠具教の娘(=千代御前=雪姫)のことだと思います。

千代御前は三瀬の変の後も生きて信雄を支え、子を産み、小牧長久手の戦いも夫婦で乗り越えたのでしょう。

もしかしたら竹田定加の診察を受けたのは、小姫を授かって体調が悪くなったからなのかもしれません。

 

Wikipedia織田信雄」の項における千代御前(雪姫)に関する記述は『三重・国盗り物語』を出典にあげていますが、この本は伊勢北畠の歴史を創作を混じえて叙述したものであり、書いてあることを全て歴史的事実であるとするのはダメなものです。

(とはいえ、貴重な文書などの翻訳が付録でついていたり子孫の方に伝わる逸話などが載っており、とても良い本です)

 

 

 

 

 

 

このブログについて

歴史のちょっと気になることを調べていきます。できる範囲で。

Googleと図書館をフル活用。

 

※私は歴史好きですけれど、大河ドラマを見たり歴史小説や漫画をたまに読む程度の素人なので、私のブログを鵜呑みにしないようお願いします。

素人の浅学で調べ考えていることですので

当時の時代背景などきちんと把握せずに史料を読んで誤った解釈をしていることもあるかと思います。

 

また誤字がないよう注意していますが、うっかりミスもあるのでご了承ください。

 

引用元(出典)は必ず書くので興味がある方はご自身で資料を確認して判断してください。素人の私の解釈はあてになりませんから。