俺の調べ学習

素人がGoogleと図書館を使って調べます。しょせんは素人の戯言なので信用しないでください。水上に千年住んでる人。

大西源一博士

北畠研究会様、ネタにマジレスいたします。

 

 

北畠研究会「北畠氏学講座」はある実在の人物を名指しで批判し、自説の正当性をうったえています。

引用します。

 

               ・北畠有馬家・

  有馬昌範が再興してから、範顕まで京都で過ごすが、幕末の動乱により滅亡してしまい、範顕とその子・丑之助麿、酉松麿は浪岡に隠遁した。明治6年に範顕が死去したあと有馬家は帰農、丑之助は子が無かったので相続権を放棄して、弟・酉松に相続権を譲って若くして隠居した。酉松は北海道に農業技術者として渡道し、地方を経て旭川に至った。

 酉松の子・有馬範治は明治33年(1900)に生まれ、大正末期から先祖である北畠氏の研究を進め、遺跡や土地を歴訪して、北畠昌教の墓所を発見、「北畠氏学」の原型を構成していった。「北畠氏の研究」の著者・大西源一や歴史学者平泉澄らとは同志で共同研究や、昭和3年の北畠神社別格官幣社昇格に尽力した。昭和30年ころに北畠神社先代宮司(当時新任宮司)の宮崎有祥氏らと「北畠氏学」を完成させたが、神社行政中枢部に強いパイプを持って文学博士となった大西源一ら非地元・非関係の諸氏が、地元軽視と文献学のみを基調とし、遺跡伝承を無視しはじめたために同調せず、「北畠氏学派」と「大西学派」に分裂、歴史学会と神社界に強大な力をもつ大西学派により野に下った。これにより、後継者育成も極度に困難となった。大西源一の死後はこの傾向はかすかに緩んだ。

 「北畠氏学」を完成させた有馬範治も平成5年に死去した。子孫は札幌に居住である。

 このように、伊勢北畠宗家は現在は「有馬氏」として残っている。

 

 三重県郷土史家、大西源一氏と共同研究や北畠神社別格官弊社に尽力したということですが、本当なのでしょうか?

 大西源一氏の著書、宮崎有祥氏の著書を見ても共著者に有馬さんの名はないです。

  そして宮崎さんは著書のあとがきで執筆に協力者の名前を出して謝意を述べていますが、その中に有馬さんの名前はありません。

    宮崎さんの著書『南朝伊勢国司』には北畠昌教の墓前に顕彰碑を建てた折戸三郎さんが紹介されています。しかも写真つき。

   折戸さんのことを書くなら一緒に墓を発見したという有馬さんの名前が出てきてもよさそうですが、出てきません。

 

 また、昭和三年の北畠神社別格官弊社昇格に尽力したという話。

 昇格運動は大正三年から始まり、昭和三年の昭和天皇の即位大祭にともなって叶ったのです。

 有馬さんは大正末期から研究を始めたとのことですから、運動に関わっていたというのはどこまで信じていいのでしょう?

 

 昇格運動は伊勢神宮の今井清彦少宮司、大西源一氏、北畠末裔を自称する北畠治房氏、歴史学者の八代国治の尽力、そして何より村民の熱い思いがあってこそ叶ったものなのです。(はじめ請願書を北畠治房に依頼し書いてもらったが通らなかったので八代国治に依頼した)

 

『大西源一博士小伝』に昇格運動の経緯が詳しく書かれていました。有馬さんの名は出てきませんよ。

 陰謀論者の思考回路では神社界と歴史学会に強大な力をもつ大西さんが有馬さんの名を消したということになりそう(^_^;)

 

 大西さんは長年『大神宮史』の編修に関わってきた人で伊勢神宮の職員とも親しくしていたようです。

 この経歴をヒントに北畠研究会の中の人は「神社界と歴史学会に強大な力を持つ」という設定を思いついたのでしょう。

 

 

 というわけで、図書館で大正三年~昭和三年十一月の伊勢新聞マイクロフィルムを見てきました。北畠神社の昇格に関する記事をチェックしたのです。

 

結果は、 有馬さんの名は見つかりませんでした。

 頑張って探したんですけどね。

 

 

 

昭和30年ころに北畠神社先代宮司(当時新任宮司)の宮崎有祥氏らと「北畠氏学」を完成させたが、神社行政中枢部に強いパイプを持って文学博士となった大西源一ら非地元・非関係の諸氏が、地元軽視と文献学のみを基調とし、遺跡伝承を無視しはじめたために同調せず、「北畠氏学派」と「大西学派」に分裂、歴史学会と神社界に強大な力をもつ大西学派により野に下った。

 ↑これもなんだかよくわからない言い回しの文章ですね。

 

大西さん、地元の人ですよ?

美杉村の出身ではないので狭義の意味では「非地元」ですけど。

「地元軽視」というのも意味がわからない。大西さんの著書を見る限り、めっちゃ地元重視していると思うのですが。

「北畠氏学派」「大西学派」ていう用語?も何それ?

 

大西源一氏の学説に異論があるならば論文を書いて反論すればよかっただけのことですよ。

 

これにより、後継者育成も極度に困難となった。大西源一の死後はこの傾向はかすかに緩んだ。 

 

後継者育成ていうのも意味がわからない。

歴史学ってお家流なのか!? 

「北畠氏学を完成」ていうのも意味がわからない。

学問に完成ってあるのか!?

 

「大西源一の死後はこの傾向はかすかに緩んだ」といいますが、大西さんの死後に執筆刊行された『三重・国盗り物語 総集編』にある昇格運動の話に有馬さんの名は出てきません。

 

 

昭和三十年ごろに北畠氏学を完成させたとのことですが、そのころ有馬さんは大変お忙しい時期だったはず。そんなことをやってる時間的な余裕はなかったのではないかと思います。

 

北畠研究会の中の人は有馬さんの家に北畠末裔の伝承があるのを何かの機会で知り、勝手に有馬さんの名前を使って創作したのではないかと私は推測しています。

 

「北畠氏学講座」に名前を使用されてしまった有馬さんが気の毒です。

 

 

★大西源一氏について

「北畠氏学講座」を読むと大西さんは権威主義者の悪い学者という印象を受けますが、『大西源一博士小伝』を読んでみたらそんなことはない愛されキャラの先生でした。

 

驚くことに学歴は小卒ですが、若いころは働きながら史料蒐集、研究をつづけ三重県郷土史研究に貢献した人です。

また北畠治房とのエピソードからも大西さんの人柄が伝わります。

はじめ北畠治房の間違いを指摘し激怒させたのに最終的には仲良くなって治房氏から「孫が来たより嬉しい」と言われるまでになったとか(治房氏が村民から雷爺とあだ名されていた話も面白い)。

それから高松宮への御進講を依頼されたとき「髭を生やしたままにするなよ」と念押しされる話もありました。

面白い先生だったみたいですね。

 

 

北畠研究会は約二十年間も歴史家としての大西さんの名誉を傷つけるようなことを全世界に発信しつづけています。と同時に有馬さんの名誉も傷つけているのです。

 

実在の人物の名前を出すことでリアリティをもたせ、かつ研究書等に北畠有馬氏が出てこないことの辻褄合わせをするのが狙いだったのでしょうが、そういうことしたらダメですよ。

 

追記

「北畠氏学講座」に対して疑問に思われている方がいらっしゃいました。

北畠家ウィキペディアは一時荒れていたみたいですね。

しいまんづ雑記旧録 高家「有馬」家と謎の?「有馬」家

 

ばんない様、ブログのリンク快諾していただきありがとうございます。

 

また、5ch(当時2ch )でも「北畠氏学講座」について疑問視する声がありました。

「北畠氏  5ch  」で検索すると出てきます。

 

疑問の声があったにも関わらず、「北畠氏学講座」の真偽不明な情報が史実として広まってしまったことにネットの影響力の凄さを感じています。

 

私のブログで頑張って検証を続けてもアクセスも少ないし(涙)、払拭されることはないんだろうな…

 

奇跡的に私のブログが多くの方に見てもらったとしても、払拭は不可能だと思う…

 

「北畠氏学講座」発信の情報は完全に否定されることはなく、

「諸説のうちの一つ」

「伝承の一つ」

として生き残っていくのではないかと思います。

 

追記その2

ウィキペディアって編集履歴見られるんですね!

知らなかった!

 

北畠家」の編集履歴見たら、

2015年1月6日、北畠研究会に取材して投稿したとか書いてあって、あー…

大西さんの事も一時、北畠研究会の主張そのままに載せていたみたいですね。

大西さんの遺族に名誉毀損で訴えられてもおかしくない

 

…こういう場合、どうなるんでしょうね。ウィキペディアの事情をよく知らないのですが、仮にウィキペディアの内容に関して裁判起こされたら誰が被告になるのか…

ちょっと話がずれました。ではこのへんで終わります。