- 井上専正
でネット検索すると出てくる情報を簡略にまとめると、
- 井上専正は北畠家臣で、織田信長との戦いに多数出陣し戦功をあげる。
- 三瀬の変のとき、北畠具房の妻、鶴女を鳥屋尾石見守と一緒に田丸城から救出し、同じく家臣である吉田家にかくまう。
- この時、鶴女は身籠っており吉田家で北畠昌教を出産。
- その後、織田側から逃れるために井上専正は昌教を連れて本願寺を頼り顕如に弟子入りする。
- 後に秋田の鹿角に専正寺を開く。
- そして昌教を鹿角に呼び寄せる。
- 昌教は津軽為信の客分になる。
- 専正の娘が昌教の妻になる。
といったストーリーが語られていますが、何の資料を根拠に書いているのかわかりません。
どうも、ネット上の初出は先に書いた北畠氏について細かく書いているサイト「日本の歴史学講座」「北畠氏学講座」のようです。(私の調べた限りの見解です)
http://kitabatake.world.coocan.jp/kitabatake9.html
このサイトでは昌教の次男が折戸を名乗り、孫が有馬を名乗ったと主張しています。
織田信長との戦いに多数出陣し戦功をあげているのなら、勢州軍記などの史書や北畠氏に関する研究書に井上専正の名が出てきてもよさそうなのですが、出てきません。
何の資料が根拠なのか…
調べてみました↓
秋田県広報協会が1970年に発行した雑誌「あきた」通巻103号に
専正寺の縁起に関する文章が載っています。
専正寺に伝わる由緒巻物は重要文化財で、正徳年間にしたためられたものらしく、その内容が書かれていましたので一部引用します。↓
「当時ノ開基俗性ハ其昔信州高井群ノ城主隠岐守源満実ノ末孫也(八万石)
井上味兵衛専正ト号ス
父ハ左衛門尉専忠トテ勢州国司北畠大納言具教卿之幕下二属シ武門繁栄ス
然ル二織田信長ノ謀略ニヨリ北畠ノ君臣乱レ、主ハ臣ヲ捨テ威勢強キ二随テ君臣共二信ヲ捨テ礼ヲ捨テ大乱ノ世トナリヌ
凡そ三界無安■如火宅ノ説ヲ今二見ルガ如シ、是ノ故二国司ノ家臣モ大二乱レ、家臣ノ多クハ信長ノ幕下トナリ、具教卿モ臣ノ為二空シク生害シ玉フ」と書かれている。
主君を討たれた幕下左衛門尉専忠は乱軍の中に討死、時に天正四年十一月二十五日。
専忠の一子富之助専正は幼少の身で、母と共に難を免れ伊勢の国中西の里に縁者を慕って居住。
母は富之助の成長を待ったが病を得て中西の里に空く終る。
富之助は成長するにつれ上求菩提の志深く、父母の恩を報ずるには、出家の功徳にまさるものなしと決意。
諸国を巡回して有縁の知識を尋ね、要法を聴き歩いたが、諸国大乱の折柄満足すべき師にめぐり逢い兼ねたのである。」
〜引用を終わります。
三瀬の変のとき、井上専正は幼少の身だったというのです。
「織田信長との戦いに多数出陣、具房室を救出した」というネット情報はなんなのでしょう?
由緒巻物によれば、三瀬の変の後、専正少年は伊勢の中西に母と暮らし、のちに母は病死。成長した専正は父母の恩に報いるため出家することを決意し、諸国を巡回します。
教順という法名をもらい、後に奥州花輪の里に下りて、天正17年、専正寺を建立したとのことです。
(ちなみに「北畠家臣録」に「井上丹波守」という名があるので、専正の父か祖父なのではないかと思います。 )
この話に「北畠昌教」や「鳥屋尾石見守」の名は出てきません。本願寺に入ったときにも「昌教」を連れて行ったということも書いてありません。
有馬氏のことも載っていませんでした。ネット上にある専正と昌教にまつわるエピソードは一体なんなんでしょうね。
なぜネット上では織田信長と戦ったり、具房室を救出したストーリーが確定した史実であるかのような情報が出回っているのか…
ネットの影響力はすさまじい
このブログを読んで、興味をもたれた秋田県在住の方、または国会図書館近くにお住まいの方、『秋田県史』『鹿角市史』『南部叢書』などの資料を調べてみてください。
経済的にも時間的にも私はこれ以上調べることができません涙。
できたら、コメント欄を通じて私に教えてください。あつかましくてごめんなさい。
追記
昭和54年の「広報 かづの」146号をネット上で見つけました。
その中に専正寺と北畠昌教に関する記事がありました。
この記事では、現在ネット上で流れているように専正が鹿角に北畠昌教を呼び寄せたという話になっています。
しかし、昌教が本願寺の庇護を受けたことは書いてありますが、専正が本願寺に昌教を連れて行ったという話ではないようです。
また、専正が織田信長相手に戦ったという話と田丸城から具房室を救出した話は書いていません。昌教が津軽の客分になったことも書いていません。
ちなみに、有馬氏のことも書かれていません。
追記
1998年の「広報 かづの」606号に北畠昌教の墓や居住していたと伝わる館に関する記事がありました。
この記事は昌教についてかなり詳しく書かれています。
が、この記事にも井上専正が織田信長相手に戦ったという話と田丸城から具房室を救出した話は書かれていません。昌教が津軽の客分になった話もありません。有馬氏のことも出てきません。
これまで 調べてみてわかったことを私なりにまとめると、
・秋田の鹿角に北畠の遺児が移り住んだという〝伝承〟があったのは事実。
そして北畠の遺児の子孫は折戸を代々名乗っている。
・伊勢出身の井上専正がなんらかの形で関わっていた可能性は大いにある
・しかし、井上専正が田丸城から北畠昌教の母を救出した話と織田信長との戦に出陣した話はネット上の創作…かも?
・専正の娘が昌教の妻になった話はどこ…?
・有馬氏の話もどこ…?
・北畠昌教が津軽為信の客分になったという話もソースがよくわからない…
ということです。
私が思うに、北畠氏学講座というサイトが鹿角の伝承と三重県旧美杉村(伊勢北畠の本拠地)の伝承をミックスした「お話」を作り、それがネット上で広まったというのが妥当なところではないでしょうか…
またまた追記
井上専正と北畠昌教について書いてあるページを見つけました。
http://www2u.biglobe.ne.jp/~gln/88/8871/88716101frame.htm
参考 鹿角市発行「陸中の国鹿角の伝説」
と書いてあります。それを読みたい…それの参考文献知りたい…参考文献の参考文献を知りたい
リンク先のページにも専正が織田信長と戦った話と田丸城から具房室を救出した話は書いてないです。有馬氏の話もありません。
田丸城から救出したのではなく、後に都にいた昌教を連れてきたという話になっています。
やはりネット上にある専正が織田信長と戦った話と田丸城から救出した話は何の資料・史料を根拠に書かれているのか不明です。
たぶん最後の追記 H30.4.24
図書館で、美杉村の北畠神社の宮司だった宮崎有祥さんの著書(『南朝と伊勢國司』昭和43年)を読んできました。北畠氏の末裔に関することが書かれている本です。
「直系の子孫があるとは考えられませんが」と前置きしつつ、末裔を名乗る方々に対して最大限の敬意をはらった文章です。
著者の宮崎さんは北畠の末裔の方に会うために東北に行ったのです。
著書の一部を引用します。↓
〝この名族の血統を伝える人々が意外に多いことに驚かされます。特に東北地方と北畠氏との因縁は浅からず、彼地へ行って、それらの旧家を訪ね、家系を調べて、子孫として由緒ある家門に生を享けたことを自覚し、心密かに誇りとせられているのを見て(以下略)〟
そしてこの本には
秋田に移り住んだ北畠昌教の末裔の折戸さんと宮崎さん、それから専正寺の住職の未亡人、先々住未亡人の四人が一緒に写った写真が掲載されていました。
専正寺先住未亡人と折戸さんが一緒に写っているということは…専正寺にも北畠昌教に関する伝承があったってことかな?
本文では専正寺について言及がないので、そこの部分はよくわからないです。
ところで、写真に写っていた北畠昌教の末裔・折戸三郎さん。この方の息子さん、第二次世界大戦で出征し、ルソン島で亡くなったそうです。
一人息子だったそうです…
ペン書きで「屍をば敵に渡さじ多気に行く」
と遺書を残して、割腹したそうです。
息子さんは先祖のゆかりの地である多気(現美杉町)に一度は行ってみたいと思っていたのでしょう。
興味本位で井上専正と北畠昌教について調べ始めたのですが、まさかこんな悲しい話を知ることになるとは…
息子さんの魂が安らかでありますように。
それから、もう一つ、この本には東北と北畠に関わる興味深い話が書かれていました。
昭和三十四年に農林大臣三浦一雄さんが北畠神社を参拝したそうです。
農林大臣の参拝に宮崎さんは驚き、訳を聞くと三浦さんは
「私の郷里は青森ですが、何代か前に三浦一族を率いる豪族となって津軽藩に入っていますが、元はといえば伊勢北畠氏から出ています。私は昔から、一度はぜひ祖先発祥の地である多気の地を訪れて祖霊を拝したいと念願していましたが、今日図らずもそれを果たしたので、こんな嬉しいことはありません。」
と、答えたそうです。
三浦さんはその二、三年後に亡くなってしまい、詳しい話を聞く機会を失ってしまったとのこと。
東北と三重県はすごく離れているけれど、三浦氏のご先祖が移り住んだということは、伊勢北畠氏と浪岡北畠氏の交流が続いていたということ?
浪岡北畠氏が滅んだ後も、一族や家臣の末裔が東北に暮らしていたかもしれないし、つながりはあった…?
北畠昌教が東北に移り住んだという伝承もそういう縁があったのかもしれませんね。
※ただし、昌教が「津軽の客分になった」という話は真偽不明です。
ちなみに、宮崎さんの著書にも井上専正が織田信長と戦った話と田丸城から昌教母を救出した話は載ってませんでした…。
有馬北畠氏についてもやはり載っていませんでした。
追記 H30.5.13
北畠家臣帳だけでなく多芸録にも「井上丹波守」の名がありました。
「井上丹波守
姓源氏大和宇陀郡人後移小倭木造従騎」
井上一族は元は大和宇陀郡の人ということは
信濃井上氏は信濃から大和に移った後に伊勢に移ったのでしょうか?
(北畠は大和宇陀郡にも影響力ありました)
また『多芸志略 三巻』(梅原三千)によると
「井上丹羽守
源氏射和住田丸寄騎」
とありました。これは昭和三年に斎藤拙堂所蔵の分限帳を写したものです。
行書体で書かれているものなので、私が読み間違えてる部分もあるかもしれません。あしからず。
それと少し話がそれるかもしれませが、『多気史蹟』(梅原三千)に井上円了が多芸(多気)を訪れたという話が載っていました。
なぜあの井上円了が?(まさか妖怪退治に⁈)
哲学堂創設のために諸国を巡講していて大正五年二月に多気の小学校で講演したそうです。
気になったのでググったら井上円了も信濃井上氏の子孫だという説を紹介する論文を見つけました。
「井上円了とその家族 生家の慈光寺と栄光寺を含めて」
三浦節夫著
井上円了センター年報15号
信濃井上氏の出自だからといって
井上円了の家系が伊勢北畠と何か関係は…まぁ関係ないでしょう。