鳥屋尾石見守満栄に関するネット情報について
・三瀬の変の時、田丸城から身重の北畠具房室鶴女を井上専正と共に救出し、北畠家臣の吉田大悪才の屋敷にかくまう
・具教の弟具親が挙兵するとそれに従って挙兵するも川俣の戦いで討死する
という話をネットでは見かけます。
(何かのゲームでもそんな話になってるみたいですね)
ネット上にある鳥屋尾石見守満栄のこの二つの話は何の資料を根拠に書かれているのでしょう?
Wikipediaの鳥屋尾満栄の情報も資料がよくわかりません。
まず、石見守が川俣谷の戦いで討死したという話について私が調べたことを書いていきます。↓
ネット上にある「石見守が川俣の戦いで討死した」という話の出処はどこにあるのか…
井上専正の記事でも紹介したこちらのサイトがネット上の初出ではないかと…
http://kitabatake.world.coocan.jp/kitabatake13.4.html
「北畠氏学講座」さんです。
(Wikipediaの北畠家という項目の外部リンクにこちらのサイトが貼られてて驚いた)
なんの資料を元に書かれているのでしょうか…?
どこかにそういう伝承があるのでしょうか?
勢州軍記などでは川俣谷の戦いで闘ったのは息子の右近将監だと書いてあります。
※『勢州軍記』を確認したら右近将監は「甥」とありました。私のミスです。申し訳ありません。(H30.9.1)
では石見守はどうなったのか。
勢州軍記や北畠物語、多芸録には書かれていませんが美杉村の資料館に石見守は戦に敗れた後、中国に移ったという史料が展示されています。
(私は去年の9月ごろ資料館に行って見たのですが詳しい内容をメモした紙を紛失しました( ; ; )
また鳥屋尾石見守の最期について、『伊勢国司記略』(斎藤拙堂著)には「多気記」(多気の郷士鈴木長十郎持伝の書)を引用して
「其後鳥屋尾石見守竹原へ退き天正九年病死す」と書いてありました。
(ただし、「多気記」について拙堂は〝誠しからぬ事も彼是打まじれど〟と書いている)
どれが事実かはわかりませんが、川俣の戦いで石見守は討死していないでしょう。
それから、田丸城から具房室鶴女を救出し吉田家の屋敷にかくまったという話。
これも「北畠氏学講座」さんが初出でしょう。
勢州軍記や多芸録、北畠氏に関する研究書等には書かれていません。
「北畠氏学講座」では吉田大悪才の屋敷に鶴女をかくまい、そこで北畠昌教が生まれたとしています。
吉田大悪才の末裔である吉田兼明さんの名前を出して説得力を持たせています。
吉田さんの著書を図書館で読んできました。引用します。(『志摩海賊記』吉田正幸 昭和53年)※吉田さんの本名は正幸で、後に兼明をペンネームにしたようです。
「兼房。本姓藤原氏(卜部氏)にして、(中略)永禄年間織田信長、たびたび伊勢を攻めた折、兼房もたえず戦場に出て戦功数度あり。国司家御親族の内で信長へ内通密謀の人を害し奉り主君へ言上し、隠居を願えどもお許しなく、自ら入道して大悪才と号し出勤する。具教卿御隠居遊ばされ三瀬の御館へ移住に付き、兼房も供奉して長ヶ村に住す。
その後三瀬の御屋形は信長表裏の謀略にて焼尽し具教卿を始め御公達も滅亡、天正四年十一月二十五日具教卿五十九才なり。御家人大半信長へ降参、大悪才は家来四人(伊藤十内、吉田小六郎、殿原喜太郎、岸庄蔵)を召し連れ知行所の山奥五十町の惣門という所に遁世、自ら一字石の法華を書写して、主君の御菩提を弔うこと三年、この間、百姓共夜所用を達す。」
(中略)
「兼房は文禄四年二月四日大往生を遂げ法名は本覚院殿桃原宝林居士と号す。」
これは吉田さん持伝の古文書を現代風に直して掲載したものだそうです。
吉田さんの著書にはどこにも鶴女をかくまったことも北畠昌教のことも書いてありません。
「北畠氏学講座」は何を根拠に言っているのでしょうか…
※「北畠氏学講座」では「桃ヶ原」という地名を出して「茂原」(吉田屋敷のあった場所)のことであろうとしていますが、吉田さんの著書にある大悪才の法名からとったのではないかと。茂原(読み・もはら)の旧名が「桃ヶ原」という話を私は聞いたことがない。
わざと“伝承”ぽく語ることで逆にリアリティを持たせる「北畠氏学講座」のテクニックなのだと思う。
実は鳥屋尾石見守が北畠遺児を救出した話は「北畠氏学講座」以外にもあります。
1997年出版の『美杉村のはなし 民話と歴史』(坂本幸 著)に載っています。
地元の伝承をまとめ、物語風にした本です。
引用します↓
織田の大軍を迎え撃つため、不眠不休で味方の軍の指揮にあたっていた城代の北畠左衛門尉政成どのは、
「間もなく敵の総攻撃が始まろう。今のうちに女や子どもは落ちのびよ」
と、内室方とそれぞれのお子方に武勇の家臣をつけて落ちて行かせた。
少辨御前と松千代丸君もあわただしい旅立ちになった。
今は亡き国司具教公に、
「近々戦が始まろう。万が一のことがあらば、姓名を変えてでも松千代丸を頼む。決して、北畠の血脈を絶やすまいぞ」
と、内々に耳打ちされていた少辨御前の兄家能は、
「我が所領、津留にお隠し申してくれ」
と、鳥谷尾石見守に二人を託した。
以下略
『美杉村のはなし』では石見守が霧山城から具教の内室少辨御前と北畠の遺児を救い出した話になっています。
この霧山城から脱出した松千代丸は長じて母の姓鈴木具家を名乗り蒲生氏郷に仕えたと『美杉村のはなし』には載っています。
石見守が救出したのは田丸城の鶴女・昌教親子なのか
霧山城の少辨御前・鈴木具家親子なのか
どっちが本当?鳥屋尾石見守が二人いたことになってしまう
…私が思うに「北畠氏学講座」は鹿角の折戸氏の伝承、吉田さんの著書、そして『美杉村のはなし』に載っている話を上手に取り入れて、独自のストーリーを創作したのではないかと…
創作であったとしても、有馬さんが北畠の末裔であることを否定するものではありません。
有馬さんが末裔であるのは事実だとしても、「北畠氏学講座」の内容は創作の可能性があるということを私は言っています。
★吉田大悪才について
「北畠家臣録」や「多芸録」には姓は藤原氏とあります。
吉田さんは著書『北畠暦紀』の中で吉田兼好の末裔だと書いていますが、兼好の末裔なら卜部氏ではないのかと…
先に紹介した『志摩海賊記』では
「藤原氏(卜部氏)」というどっちつかずの表記をしていましたが…
吉田大悪才は兼好の末裔ではなく、後醍醐天皇の側近、吉田定房(藤原氏)の末裔なのではないかと私は思うのですが…うーむ。
兼好のルーツは伊勢武者であるという説(『兼好法師』小川剛生著)もあるので…どうなんでしょう。
吉田さん本人が兼好の末裔だと書いておられるので、家に代々伝えられていたのは事実なのでしょう。
どちらにしろ凄い家系ですよね。
『志摩海賊記』によれば関ヶ原の時の伊勢中島の戦いに吉田氏(吉田悪才弥四郎)は出陣して九鬼氏を援けたそうです。その時の活躍は「山田中嶋軍記」に記されているそうです。
★霧山城から脱出したという北畠遺児について
『美杉村のはなし』(1997)によれば霧山城から鳥屋尾石見守の手引きによって脱出したという鈴木具家(松千代丸)の息子が北畠八幡宮を創建した鈴木孫兵衛家次らしいです。
しかし、昭和35年発行の『美杉秘帖』では話がだいぶ違っています。
『美杉秘帖』掲載の「鈴木家歴(抜粋)」を一部引用します。↓
「北畠落城の時坂内兵庫守国司九世三位宰相中将具房ハ坂内御所ヲ逃レ、天正ノ乱ヲ奥ニ避ケ其ノ地ニ成長一子ヲ育テ、其ノ子賢ニ父ノ遺訓ヲ忘レズ具房卿ノ一男ニ生本国ノ一志◾️◾️◾️に住鈴木孫兵衛尉家次ト呼是即晴具四代ナリ(以下略)」
半世紀も経ってないうちに伝承の内容がずいぶん変わっています。
美杉秘帖に掲載されている話は
・霧山城ではなく坂内御所を脱出。
・脱出したのは具家(松千代丸)ではない
・坂内具義なのか北畠具房なのかよくわからない記述になっている。
・鳥屋尾石見守が救出した話は記述なし。
そもそも〝伝承〟というのはアヤフヤなものなので、気にすることでもないかもしれませんが…。
『伊勢国司記略』に「多気記」を引用して
「政成の子息亀千代丸十二歳なるを家人早川傳五郎つれて立のき、備後國福山へ立退く。其後坂内子孫左衛門尉具家を以て尋ねられしが、薩摩國へ行きしとかや」
と書いてありました。
また『三重 匡盗り物語総集編』(昭和49年)P309に鈴木氏から編者への手紙の内容が紹介されており
具房の内室は、ここで病死。その子は成長して坂内左衛門尉具家となる。その子が鈴木孫兵衛家次である。
と紹介されています。多気記の登場人物と同一人物なのでしょうか?
(『三重・国盗り物語』で紹介されている具家・家次親子の話もまた変容しているのですが省きます。興味がある方は図書館へgo)
『美杉村のはなし』にある伝承は北畠政成の子息の話とゴッチャになって徐々に形成されていったのではないかと私は思うのです。
伝承とか言い伝えはアヤフヤなもので時と共に変容していくものですから。
※誤解を招かないように念のため言いますが、鈴木家が北畠の末裔であることを否定するものではありません。
北畠の末裔だという伝承が代々伝えられているのは事実なのでしょう。
★霧山城城代だったという北畠政成について
北畠政成という人物について、斎藤拙堂は以下のように考察しています↓
「按ずるに、此多気記は多気の瀧廣と云所の郷士鈴木長十郎が家に持傳へたる舊記の由にて、篠田賢治借り出して余に示しぬ。其内には誠しからぬ事も彼是打まじれど、舊傳の事もまヽあるべく、政成を始め多気にてありし事、此記の外に初見なけれは、原書を節略してこゝにしるし置く。且は政成と云人此書及び法名帳の外に見えず。此人を政具の弟、政義の孫、政勝の子なりとあれど、政義と云人系圖等に見えず。政勝は澤氏文書、阿坂浄眼寺文書に文明年中の下知状あり。材親國司幼年の頃後見したる如く見ゆ。此人文明年中の人なれば、天正四年迄は百年程なり。政成其子といはんは年代合はず。政勝の次今一代あるべし。歴名土代に北畠政能天文二十三年八月叙爵、永禄三年六月八日宮内大輔とあり。此人政成の父にてもあらんか。」
大雑把に現代風に言うと↓
〝鈴木長十郎の家にあった「多気記」は本当かわからないことも書いてあるけど、政成や多気の出来事を書いてある書が他にないから「伊勢国司略記」に載せといたよ。
政成という人物は「多気記」と「法名帳」以外に名が見当たらないよ。
政具の弟、政義の孫、政勝の子だって多気記には書いてあるけど、系図にないし年代が合わないよ。
北畠政能て人がいたけど、この人が政成のパパじゃないかな?〟
みたいな感じかな?
「法名帳」とは「北畠御所討死法名」のことでしょうか?
だとしたら、「北畠御所討死法名」の最後の方に書かれていた「家次五代孫上多気村 北畠長十郎」と多気記の持ち主「鈴木長十郎」は同一人物ということ?
※最近の研究では政勝と北畠政郷が同一人物であることが明らかにされています。
とすると、政成が「政勝=政郷」の息子だというのは世代的に考えてますます疑問ですね;うーん。
★Wikipediaの北畠政成の項目について
政成の妹・鶴女は北畠具房の室であるとWikipediaには書いてあるんですが、はて?何の資料にあるのか…?
私が知る限り資料がない…
うーむ、何か資料があるのだろうか?
小説『忍者烈伝ノ乱 天ノ巻』(稲葉博一 著)p47に
〝政成の妹である「鶴女」が、中の御所である北畠具房の室であった。〟
という記述があります。これは稲葉さんによるフィクション創作なのか、何か資料に基づくものなのか…?
…政成の妹だという伝承があるのでしょうか?
そういえば、具房の室って系図にないですね。「北畠氏学講座」では具房の正室は鶴女ということになっていますが。
しかし、鶴女が政成の妹だという資料はどこにあるんだ…?
追記
鶴女が政成の妹だっていうのも「北畠氏学講座」さんが発端ぽいですね。
鶴女は北畠政勝の娘だと北畠氏学講座では言ってます。
でも、拙堂も言ってるように政勝は年代が合わないんです。
鶴女が政勝の娘だとするとかなり高齢の妊婦さんですよ…
それと、鹿角の伝承・北畠昌教の母の名前は「鶴女」と伝わってるんでしょうか?
私はうっかり鹿角に「鶴女」と伝わってると本文に書きましたが、もう一度見直したら(ネットでわかる範囲内)単に「母」とされていて「鶴女」ではないです。
(本文は訂正しておきました)
昌教母・鶴女の名付け親は北畠氏学講座さんじゃないですか?
『美杉村のはなし』の小辨御前が〝津留〟に逃げたから、そこから名付けたのでは?