俺の調べ学習

素人がGoogleと図書館を使って調べます。しょせんは素人の戯言なので信用しないでください。水上に千年住んでる人。

このブログについて

歴史のちょっと気になることを調べていきます。できる範囲で。

Googleと図書館をフル活用。

 

※私は歴史好きですけれど、大河ドラマを見たり歴史小説や漫画をたまに読む程度の素人なので、私のブログを鵜呑みにしないようお願いします。

素人の浅学で調べ考えていることですので

当時の時代背景などきちんと把握せずに史料を読んで誤った解釈をしていることもあるかと思います。

 

また誤字がないよう注意していますが、うっかりミスもあるのでご了承ください。

 

引用元(出典)は必ず書くので興味がある方はご自身で資料を確認して判断してください。素人の私の解釈はあてになりませんから。

 

 

 

織田信孝の妻 鈴与姫について

神戸友盛の娘(一説には高野可夕からの養女)、織田信孝の妻について。

勢州軍記には詳しく書かれていませんが、神戸良政(能房)が編纂した『伊勢記』、そして良政の近しい人が書いたのではないかと考えられる長覚寺の北畠源氏系図には彼女に関する記述があります。

 

まず、伊勢記における鈴与姫の登場箇所を見ましょう。

(私の誤読がある可能性あります。ご容赦を)

同月信長使神戸友盛押而為隠居

神戸蔵人友盛元関盛信男一利有養子契約而信長使三七為嗣故関与神戸不喜願変政

信長聞憤之神戸夫婦為年始祝儀到江州日野時信長押之使為隠居被預蒲生賢秀

神戸侍佃又右衛門尉等僅奉友盛

使三七為友盛聟嗣神戸信長使友盛女竹子嫁三七九歳也祝言三七嗣家督此時……

 

 私のてきとーな訳

神戸友盛と関盛信は盛信の息子一利(勝蔵)を神戸家の婿養子にする約束をしていたために、信長の息子三七が神戸家にやってきたことはうれしく思っていなかった。

信長はこのことを聞いて怒って神戸夫妻が妻の実家へ正月の挨拶に出向いたときに幽閉し無理に隠居させてしまった。わずかな人数の神戸侍が友盛のそばにいるだけになった。

信長はこの時、友盛の九歳の娘竹子を三七に嫁がせ、神戸家の家督を継がせた。

 

ちょっと現代語訳はテキトーであやしいですけれど(*´Д`)

 

名前が「鈴与姫」ではなく「竹子」なのが少しびっくりでした。鈴与というのは別名だったのか通称だったのか? そこのところよくわからないのです。

長覚寺の系図でも鈴与ではなく「号竹子」と記されています。

そして九歳という具体的な年齢も。数え年ですから、実際は七歳とか八歳ですよね。

真偽はともかくこの時代の女性の年齢が伝わっているのは珍しいのではないでしょうか。

 

次に鈴与姫(竹子)が登場するシーンは天正九年、信孝に長女が生まれ、生母は神戸友盛女であるという記述です。結婚から約十年後、竹子は十八歳くらいでしょうか。(寛政諸家譜などでは信孝と友盛女の間には子がいないんですけどね)

この記述と並べるかのように、同年に信忠の嫡男、信雄の嫡男が生まれたことも書かれているのですが、、、、どうも信ぴょう性が。というのも信忠嫡男の生母を武田信玄女としているんですね。それと、信雄の息子って天正九年生まれでしたっけ?

(*´Д`)うーん、伊勢記の記述、どこまで信じていいの?

そして、悲しい話なのですが。

伊勢記において竹子が生んだというその女の子は後に人質に出され、三歳で命を落としています……。

 

さてさて、話を鈴与姫に戻しまして。

彼女がその次に伊勢記に登場する箇所を見ましょう。

(誤読の可能性あります)

……此時神戸蔵人友盛守沢城蒲生氏郷理之和之云我病者也全對信雄無逆意由訴秀吉依之信雄秀吉相計以林与五郎氏族十蔵為婿給沢城也可給神戸故岐阜ゟ侍隠居領知元共進逆心云云依盗信孝北方落来云云■■此息女乃信孝朝臣北方也又国府次郎四郎等同属信雄云云各蒲生氏郷相計云云

 ■部分は判読できなかった部分です。「母娘」と読めるような気もするのですが、つぶれちゃっててよくわかりませんでした。

 そしてこの引用箇所のすぐあと、信孝自害の記事の中にも「信孝北方」が出てきます。

 信孝の重要な家臣が討ち死にしたり、さらに家来が次々と去って行き、最終的に信孝は自害することになるという話の流れで、神戸侍にも裏切られた話も出てくるのです。↓

加之信孝士卒美濃伊豫両国諸侍聞柴田滅亡悉退散神戸侍四百八十騎衆又一味同心去岐阜城来伊勢州此時神戸侍共相伴信孝北方而来神戸云云

 

  信孝について岐阜城で戦っていた神戸侍たちは、とうとう信孝に「逆心」してみんなで伊勢に帰ってきたのです。そのとき、信孝の妻も一緒に連れ帰ってきたようです。

 伊勢記では帰ってきた神戸侍たちの名を列記し、「信雄秀吉以内意■神戸友盛和談友盛並林以内意落来云云」と書いています。(■は読めなかった字。たぶん、ゟという字かな、と思います)

 これら伊勢記にある記述から解釈すると、信孝に仕えていた神戸侍たちは友盛が信雄秀吉と和睦したという連絡を受けて信孝を捨てて伊勢に帰る決心をし、鈴与姫も一緒に連れ帰ったという話なのでしょう。

 ただ、ひっかかる記述があります。

 依盗信孝北方落来

 

これは、信孝からその妻を奪って逃げて来た

 

という解釈でいいんでしょうか?

 

だとしたら、鈴与姫の意に反して夫から引き離したということでしょうか?

鈴与姫は最後まで夫といたかったのか、それとも父の元へ帰りたがっていたのか、彼女本人にしかわかりません。

あくまで、わたしの妄想ですが、神戸侍たちは友盛から「どうか娘を助けてほしい」という密命をうけていたのではないかと思うのです。だからこそ強い決意で伊勢まで帰ってきたのではないでしょうか?

 

 

さて、父の元に帰ってきた鈴与姫は林与五郎の嫡男、十蔵と再婚します。長覚寺の系図を見るとこの後も波乱万丈な人生が記されています。(東京大学史料編纂所のサイトで閲覧できます)

 

系図によると、再婚相手の十蔵も間もなく戦死し、鈴与姫は再々婚します。

その相手はなんと、かつての許婚だった関家の息子、関勝蔵(一利)です。

(勝蔵と信孝北の方が再婚したことは勢州軍記でも記されています)

 

 

 関勝蔵についても少し調べたのですが、神戸友盛女・鈴与姫(竹子)を妻にしたという傍証は見つけられませんでした。でも私はこの結婚話は本当だったんじゃないかと思っています。

 

というのも、関勝蔵は蒲生家に仕えた人なんですね。

そして『伊勢記』『勢州軍記』の著者神戸能房(良政)の父・高島政房も蒲生家に仕えていた、しかも親戚同士です。

家同士交流があって、鈴与姫本人から話を聞ける状況はあり得たのではないでしょうか?

そういった関係があったのなら、高島政房が「神戸」の名を継いだことも納得いきます。

 

神戸能房(良政)は勢州軍記の序文で、「父の書き残したものをもとにして検討した」と言っています。

鈴与姫に関する話も父・政房が彼女から聞いて書き残したものがベースになっているかもしれません。

(あくまで、わたしの妄想ですけどね('ω')

 

 

…なんとなくですけど、本当に素人の浅い考察にすぎないんですけど、

 

『伊勢記』と長覚寺の系図にある鈴与姫(竹子)に関する記述は信憑性が高いんじゃないかなぁ、と思います。

本名も年齢も記されていない千代御前(信雄妻)に比べて、鈴与姫の経歴は年齢、竹子という号、再婚後に生んだ子どもの事などなど、やけに具体的なんですよね。

これは著者や著者の父の近いところに鈴与姫(もしくは鈴与姫の関係者)がいたためではないでしょうか?

※追記

女性の年齢や号までわかる系図は逆に不自然という意見を見ました。うーん。そんな気もしてきました…

 

※追記その2

別の調べものをしているときに『伊勢記』を読み直していたら、父友盛のもとに帰ってきて林十蔵と再婚した後の鈴与姫に関する記述がまだあったのに気づきました!

林十蔵内儀者元信孝北方也于時懐妊■父神戸家倶在津聞十蔵討死歎悲元■雖然男子平産後号林忠兵衛尉者是也彼内儀者嫁関勝蔵一利所以元来有契約也後男女子息等有之

■部分は読めなかった字です。

二つ目の■は「恨」という字にも見えるのですが、わかりません(*´Д`)

『伊勢記』のこの引用箇所読んだとき、私、ちょっと泣きそうになりました。

なぜなら「歎悲」という鈴与姫の「心情」を伝えるものだったからです。今までは鈴与姫の気持ちが見えてこなかったのに、これは(真偽はておき)鈴与姫の気持ちを書いてくれているのです。

何百年も前、三重県にいたお姫様が、嘆き悲しんでいた……。でも、その後無事に出産。母としての鈴与姫の強さも感じさせますね。(この時生まれた林十蔵の息子林忠兵衛尉はその後どうなったのかわかりません。でもその名が記されているということは立派に成長したということでしょう。)

 

二度も夫に先立たれた鈴与姫……勝蔵と結婚した後はどうか、幸せな人生であってほしい(;_:)

 

▲再三言っておりますが、『伊勢記』における鈴与姫の記述が事実だったかはわかりません。素人の私にはそのへん判断がつきません。ただ、真偽はともかく文献に書かれているということ自体が私を感動させるのです。そしてブログなんか書いちゃっているのです▲

 

 ☆神戸能房編『伊勢記』については、勢田道生さんの論文が詳しいです。私は勢田さんの論文を読んで『伊勢記』と長覚寺の北畠源氏系図の存在を知ることができました。

 

須賀神社と千代御前

久々の更新です。

平成のうちに更新する予定だったのですが、諸事情で遅くなりました。

 

さて、今回は愛知県岡崎市にのある神社に「千代御前」が祀られているらしい……という話です。

 

須賀神社です。

ウィキペディアを見ると

主祭神の項に

「素佐之男命、応神天皇伊弉冉命、宇賀御霊、千代御前、日本武命、迦具土命、猿田彦命、大物主命」

 

あ! 千代御前だ!

 

なんで? なんで愛知県で神様になってるの?

 

『愛知縣神社名鑑』や『岡崎市史』など見ましたが、わかりませんでした。『額田町史』を見ると、下記のようにありました↓

 

 

『額田町史』p947

 祭神の古籍について、樫山の須賀神社を一例にとれば、千代御前という古籍不明の神がある。

 

町史を編纂する専門家の方々も「不明」としているので、私がこれ以上調べるのは無理かな……?

 

 

「千代」て、よくある名前だろうし、信雄の妻・千代御前とは別人かもしれないなぁ…と思いつつ、ネットサーフィンをしていたら、

 

ある方のブログにたどり着きました。

 

(おいちゃん様、ブログ紹介を快諾してくださってありがとうございます!)

 

須賀神社で撮影した写真をあげていらしたのですが、

 

な、なんと、須賀神社には織田家の幕の紋である木瓜紋がいたるところにあるのだとか!

 

おいちゃん様のブログによると木瓜紋スサノオ命の御神紋なのだそうです。

 

ですから、織田信雄の妻・千代御前とは関係がないかもしれません。

 

でも!

 

その木瓜紋の写真を見たとき、なんだか嬉しかったのです。

 

伊勢から離れたところに「千代御前」という神様がいて、そこの神社に織田家と同じ紋がある。

偶然だろうし、須賀神社の「千代御前」がどういう神様なのかも不明です。でも、嬉しいじゃないですか。

 

今は陸路がメインなので遠い場所に思えますが、船が移動によく使われていた時代は伊勢と岡崎は感覚的には近い場所だったのかもしれません。

だから、須賀神社の千代御前は信雄の妻と同一人物という可能性はあるのでは……?

なんて淡い期待も持っています。

 

 

 

 

 

 

大西源一博士

北畠研究会様、ネタにマジレスいたします。

 

 

北畠研究会「北畠氏学講座」はある実在の人物を名指しで批判し、自説の正当性をうったえています。

引用します。

 

               ・北畠有馬家・

  有馬昌範が再興してから、範顕まで京都で過ごすが、幕末の動乱により滅亡してしまい、範顕とその子・丑之助麿、酉松麿は浪岡に隠遁した。明治6年に範顕が死去したあと有馬家は帰農、丑之助は子が無かったので相続権を放棄して、弟・酉松に相続権を譲って若くして隠居した。酉松は北海道に農業技術者として渡道し、地方を経て旭川に至った。

 酉松の子・有馬範治は明治33年(1900)に生まれ、大正末期から先祖である北畠氏の研究を進め、遺跡や土地を歴訪して、北畠昌教の墓所を発見、「北畠氏学」の原型を構成していった。「北畠氏の研究」の著者・大西源一や歴史学者平泉澄らとは同志で共同研究や、昭和3年の北畠神社別格官幣社昇格に尽力した。昭和30年ころに北畠神社先代宮司(当時新任宮司)の宮崎有祥氏らと「北畠氏学」を完成させたが、神社行政中枢部に強いパイプを持って文学博士となった大西源一ら非地元・非関係の諸氏が、地元軽視と文献学のみを基調とし、遺跡伝承を無視しはじめたために同調せず、「北畠氏学派」と「大西学派」に分裂、歴史学会と神社界に強大な力をもつ大西学派により野に下った。これにより、後継者育成も極度に困難となった。大西源一の死後はこの傾向はかすかに緩んだ。

 「北畠氏学」を完成させた有馬範治も平成5年に死去した。子孫は札幌に居住である。

 このように、伊勢北畠宗家は現在は「有馬氏」として残っている。

 

 三重県郷土史家、大西源一氏と共同研究や北畠神社別格官弊社に尽力したということですが、本当なのでしょうか?

 大西源一氏の著書、宮崎有祥氏の著書を見ても共著者に有馬さんの名はないです。

  そして宮崎さんは著書のあとがきで執筆に協力者の名前を出して謝意を述べていますが、その中に有馬さんの名前はありません。

    宮崎さんの著書『南朝伊勢国司』には北畠昌教の墓前に顕彰碑を建てた折戸三郎さんが紹介されています。しかも写真つき。

   折戸さんのことを書くなら一緒に墓を発見したという有馬さんの名前が出てきてもよさそうですが、出てきません。

 

 また、昭和三年の北畠神社別格官弊社昇格に尽力したという話。

 昇格運動は大正三年から始まり、昭和三年の昭和天皇の即位大祭にともなって叶ったのです。

 有馬さんは大正末期から研究を始めたとのことですから、運動に関わっていたというのはどこまで信じていいのでしょう?

 

 昇格運動は伊勢神宮の今井清彦少宮司、大西源一氏、北畠末裔を自称する北畠治房氏、歴史学者の八代国治の尽力、そして何より村民の熱い思いがあってこそ叶ったものなのです。(はじめ請願書を北畠治房に依頼し書いてもらったが通らなかったので八代国治に依頼した)

 

『大西源一博士小伝』に昇格運動の経緯が詳しく書かれていました。有馬さんの名は出てきませんよ。

 陰謀論者の思考回路では神社界と歴史学会に強大な力をもつ大西さんが有馬さんの名を消したということになりそう(^_^;)

 

 大西さんは長年『大神宮史』の編修に関わってきた人で伊勢神宮の職員とも親しくしていたようです。

 この経歴をヒントに北畠研究会の中の人は「神社界と歴史学会に強大な力を持つ」という設定を思いついたのでしょう。

 

 

 というわけで、図書館で大正三年~昭和三年十一月の伊勢新聞マイクロフィルムを見てきました。北畠神社の昇格に関する記事をチェックしたのです。

 

結果は、 有馬さんの名は見つかりませんでした。

 頑張って探したんですけどね。

 

 

 

昭和30年ころに北畠神社先代宮司(当時新任宮司)の宮崎有祥氏らと「北畠氏学」を完成させたが、神社行政中枢部に強いパイプを持って文学博士となった大西源一ら非地元・非関係の諸氏が、地元軽視と文献学のみを基調とし、遺跡伝承を無視しはじめたために同調せず、「北畠氏学派」と「大西学派」に分裂、歴史学会と神社界に強大な力をもつ大西学派により野に下った。

 ↑これもなんだかよくわからない言い回しの文章ですね。

 

大西さん、地元の人ですよ?

美杉村の出身ではないので狭義の意味では「非地元」ですけど。

「地元軽視」というのも意味がわからない。大西さんの著書を見る限り、めっちゃ地元重視していると思うのですが。

「北畠氏学派」「大西学派」ていう用語?も何それ?

 

大西源一氏の学説に異論があるならば論文を書いて反論すればよかっただけのことですよ。

 

これにより、後継者育成も極度に困難となった。大西源一の死後はこの傾向はかすかに緩んだ。 

 

後継者育成ていうのも意味がわからない。

歴史学ってお家流なのか!? 

「北畠氏学を完成」ていうのも意味がわからない。

学問に完成ってあるのか!?

 

「大西源一の死後はこの傾向はかすかに緩んだ」といいますが、大西さんの死後に執筆刊行された『三重・国盗り物語 総集編』にある昇格運動の話に有馬さんの名は出てきません。

 

 

昭和三十年ごろに北畠氏学を完成させたとのことですが、そのころ有馬さんは大変お忙しい時期だったはず。そんなことをやってる時間的な余裕はなかったのではないかと思います。

 

北畠研究会の中の人は有馬さんの家に北畠末裔の伝承があるのを何かの機会で知り、勝手に有馬さんの名前を使って創作したのではないかと私は推測しています。

 

「北畠氏学講座」に名前を使用されてしまった有馬さんが気の毒です。

 

 

★大西源一氏について

「北畠氏学講座」を読むと大西さんは権威主義者の悪い学者という印象を受けますが、『大西源一博士小伝』を読んでみたらそんなことはない愛されキャラの先生でした。

 

驚くことに学歴は小卒ですが、若いころは働きながら史料蒐集、研究をつづけ三重県郷土史研究に貢献した人です。

また北畠治房とのエピソードからも大西さんの人柄が伝わります。

はじめ北畠治房の間違いを指摘し激怒させたのに最終的には仲良くなって治房氏から「孫が来たより嬉しい」と言われるまでになったとか(治房氏が村民から雷爺とあだ名されていた話も面白い)。

それから高松宮への御進講を依頼されたとき「髭を生やしたままにするなよ」と念押しされる話もありました。

面白い先生だったみたいですね。

 

 

北畠研究会は約二十年間も歴史家としての大西さんの名誉を傷つけるようなことを全世界に発信しつづけています。と同時に有馬さんの名誉も傷つけているのです。

 

実在の人物の名前を出すことでリアリティをもたせ、かつ研究書等に北畠有馬氏が出てこないことの辻褄合わせをするのが狙いだったのでしょうが、そういうことしたらダメですよ。

 

追記

「北畠氏学講座」に対して疑問に思われている方がいらっしゃいました。

北畠家ウィキペディアは一時荒れていたみたいですね。

しいまんづ雑記旧録 高家「有馬」家と謎の?「有馬」家

 

ばんない様、ブログのリンク快諾していただきありがとうございます。

 

また、5ch(当時2ch )でも「北畠氏学講座」について疑問視する声がありました。

「北畠氏  5ch  」で検索すると出てきます。

 

疑問の声があったにも関わらず、「北畠氏学講座」の真偽不明な情報が史実として広まってしまったことにネットの影響力の凄さを感じています。

 

私のブログで頑張って検証を続けてもアクセスも少ないし(涙)、払拭されることはないんだろうな…

 

奇跡的に私のブログが多くの方に見てもらったとしても、払拭は不可能だと思う…

 

「北畠氏学講座」発信の情報は完全に否定されることはなく、

「諸説のうちの一つ」

「伝承の一つ」

として生き残っていくのではないかと思います。

 

追記その2

ウィキペディアって編集履歴見られるんですね!

知らなかった!

 

北畠家」の編集履歴見たら、

2015年1月6日、北畠研究会に取材して投稿したとか書いてあって、あー…

大西さんの事も一時、北畠研究会の主張そのままに載せていたみたいですね。

大西さんの遺族に名誉毀損で訴えられてもおかしくない

 

…こういう場合、どうなるんでしょうね。ウィキペディアの事情をよく知らないのですが、仮にウィキペディアの内容に関して裁判起こされたら誰が被告になるのか…

ちょっと話がずれました。ではこのへんで終わります。

多芸録と北畠御所討死法名、具房と萬輔

北畠御所討死法名の記事で、坂内具信と北畠具房が混同されていると指摘しましたが、

http://sukoyaka1868.hatenadiary.jp/entry/2018/05/28/191123

 

ウィキペディアの北畠具房の項目でも具房と具信(萬輔)が混同されています(゚o゚;;

北畠具房の戒名が萬輔の法号、圓徳院通山満浦居士になっている(・・;)

北畠御所討死法名に(おそらく)基づいて名簿を作成しているサイトを参考にWikipediaを編集したのでしょうか?

 (※大西源一『北畠氏の研究』によると具房は「松壑林公ト謚シ、京都蘆山寺ニ葬リ、高照院ト称ス」とありました。2019.12.5記)

 

 

 

 

またウィキペディアでは具房の死亡時期について注釈4で

“『多芸録』によると没年は慶長8年(1603年)に52歳で没とする異説もある”

と説明しています。

多芸録を見ると、

信雄又誘信意幽諸一室之中信意時二十五其母無寵故信意不獲受乎父雖承宗祀軍国之事無所与□□是以置之于長島得無他故又移于清洲後入京師更名信雅以慶長八年卒年五十二法諡曰圓徳院殿通山萬浦大居士信雅夫人鈴木小辨御前津駅病卒法諡曰水照院妙見大姉 

以下略

 と記述されていて、多芸録でも坂内具信(萬輔)と北畠具房が混同されています。

※□の部分は私が判読できなかった字です。

また、多芸録では具房の養子、中院親顕が慶長八年生まれであるとしている。

赤ちゃんの時に養子になって養父はすぐに死んだってこと?

 

具房が亡くなった後に親顕を北畠の養子ってことにして北畠を名乗らせたという話をネットで見たことあるけど…

 

もしかしたら、多芸録の著者はそのへんの事情がわからなかったから具房の生前に養子を迎えてると思いこんで辻褄合わせのために具房の没年を延ばしたのかも?

 

(中院親顕について時間があるときにじっくり調べてみるか)

 

 

多芸録の著者はだれかわからないけど、北畠御所討死法名を参考に書いたのかもしれません。もしくは多芸録を参考に北畠御所討死法名が書かれたのかも。

多芸録も北畠御所討死法名も千代御前を天正四年になくなったとしていたり内容が一致するので。

 

北畠具房の没年についてもう少し書きます。

多芸録では通説の天正8年ではなく慶長八年に五十二才で亡くなったという記述があります。

しかし、同じ多芸録の中で、北畠具親(具教の弟)が無くなった記述の後に

自顕能建武二年乙亥為国司至永禄十二年己巳信意滅亡之□九主二百三十二年

 と記述しており、なんだか計算が合わない

※信意は具房のことです。

※□は私が判読できなかった字です。読めない(・・;)

多分、第の異体字だと思うんだけど。

 

追記H30.6.10

吉井功兒著『伊勢北畠氏家督の消長』(トーキ)に具房の養子について書いてありました。

 

具房は桑名郡長島で幽閉されて、1580年(天正8)に京都で没したとの伝承があるが、定かではない。具房の子の親顕は1603年(慶長8)に出生と「浄北」にあるが、これは具房没後に中院通勝(槇通為の子)の子が伊勢北畠氏遺跡を継承したものである(纂北)。

  

※「浄北」=「浄願寺所蔵村上源氏北畠系図

 纂北=『系図纂要』「北畠系図

 

浄願寺で合ってるのかな?浄眼寺でなくて?

『伊勢北畠氏家督の消長』には「浄願寺所蔵村上源氏北畠系図」とあったのでそのまま載せますね。

 

『伊勢北畠氏家督の消長』は史料を逐一明示してくれているので大変ありがたいです。

北畠御所討死法名について※改稿しました

雪姫(千代御前)の記事で

 

史料「北畠御所討死法名」は三瀬の変から33年経た慶長十三年に書かれたものであると紹介しましたが、

http://sukoyaka1868.hatenadiary.jp/entry/2018/01/08/103901

 

私の早合点でした。すみません。

 

三重県史  資料編』の目次見ると、他の史料は年代書いてあるのに、北畠御所討死法名

ひとつだけ年代書いてないんですよね。

三重県史を編纂する専門家の先生方は年代不明であると判断したってことですよね。

早合点した自分がちょっと恥ずかしい。

三重県史資料編には『大日本史料第一一編之一』から引用して抜粋が載っています。

全文は『北畠氏の哀史』p54〜p62、また大西源一著『北畠氏の研究』の巻末に載ってます。鈴木弥一郎氏が所蔵していたものらしい。)

大日本史料確認したら載ってなかった…なんでや(・・;)…私が見逃してる可能性もあるのでまた図書館に行ったら見てみます

 

 

 

また、梅原三千『多芸志略』(斉藤家所蔵の書を梅原が写本したものを掲載)に

慶長十二年多気村大正庵にて法事を営みし時の『天正中北畠陣没法名帳』と題せる写本亦斉藤家に存せり

 とあり、写しが掲載されています。

 

国司記略』にある「法名帳」とはこの天正中北畠陣没法名帳のことでしょう。

内容は『北畠氏の哀史』『北畠氏の研究』の「北畠御所討死法名」とほぼ一致しています。

ただし、最後の鈴木孫兵衛家次、北畠長十郎らの名は斉藤家所蔵の法名帳にはありません。

 

達筆すぎてわかりにくかったのですが、梅原先生の補記ちょっと載せておきます。

前に載せたる所の諸士集及び二本分限張と互いに異同あるを以て今是を志るして参考に□□故に敢て□□を厭はすして全く志るす左の如し

□の部分は私が読めなかった部分です(^_^;)

斉藤家所蔵の北畠の諸士集と家臣が載ってる分限張二つの写本と内容が違う部分あるけど参考にしてもらいたいからあえて全部そのまま載せておくね、ていうことですかね。

あと、斉藤家バージョンは慶長十二年になってるのも気になる。単なる誤写かな。

  

 

さて、「北畠御所討死法名」について疑問に思う点をあげていきます。

 

素人の私が気づくくらいなので偉大な先達、斎藤拙堂先生も気づいていた部分もあるのですが…

 

★坂内具信と鈴木家次について

 

まず、斎藤拙堂も『伊勢国司記略』の中で指摘している部分をひとつ見ましょう。

 

坂内家系図にある坂内具信についてこう書いています。

北畠物語にいへる萬輔入道の事也。法名帳に萬輔が名を具房に作れり

 

また本文にこう書いています。

按ずるに、法名帳に従四位下左中将右近将監具房、天正四年十一月二十五日於坂内討死、圓徳院通山満浦大居士とあり。官位法号ともに具信の事なるべきに具房とあり。

(中略)

具此頃の国司大腹御所の名具房なるに、一家に同名付るいはれなし。思ふに満浦の名具信なるをしらざるまゝ推量して塡めたることはしられたり。

 

 

そう、「北畠御所討死法名」に

 

四位左中将坂内御所 右近将監具房

天正四 十一月廿六日当國坂内ニテ討死

圓徳院通山満浦大居士    四十七才

 

 

とあるのです。

具教の息子・北畠具房のことではなく、坂内具信(萬輔)のことだと拙堂は指摘しています。。

この法名帳は坂内兵庫頭具義の名もありますが〝具房嫡男〟と記しています。

北畠具房は坂内具義の父ではありません。系図では具義の父は具信となっています。

やはり具信(萬輔)の名を誤って〝具房〟と記したのでしょう。

 

(具信の父であろうとされる坂内具祐の元の名が〝具房〟だったので間違ったのだと思います。)

 

 

坂内具信(萬輔)は三瀬の変の時、家臣に裏切られ殺害されたと勢州軍記や北畠物語にもあります。

 

三重県郷土資料叢書 第39集

『勢州軍記』

を見ると、信雄が三瀬の変を企てるくだりで「坂内入道父子」が出てきます。

f:id:sukoyaka1868:20180616195221j:image

脚注を見ると

「坂内右近将監具房・兵庫頭具義父子(北畠家臣帳)」

とあります。

しかし、坂内御所のくだりでは

f:id:sukoyaka1868:20180616200515j:image

 

具信であるという脚注になっています。

 

北畠家臣帳にある坂内具房というのは北畠御所討死法名と同じように誤伝で、註釈者がそのまま脚注に書いてしまったのではないかと思います。

 

Wikipediaの三瀬の変の項目でも坂内具〝房〟になってる…

三重県郷土資料叢書の勢州軍記の註釈を参考にウィキペディア編集したのかもしれません。

 

 

 

坂内具信の内室についても「北畠御所討死法名」は記しています。(内室の事は拙堂は触れていませんが)

 

〝具房ノ内室則具家母公天正四歳十二月四日当國津留ニ於テ病死ス

鈴木氏小弁水照院妙見大姉〟

 

美杉村のはなし』の鈴木具家の母、小辨御前とはこの人のことでしょう。“具房”とあるのは具信の間違いで坂内具信の内室のことを指しているのだと思います。

※鈴木具家と小辨御前についてはこちらの鳥屋尾石見守の記事を見てください↓

http://sukoyaka1868.hatenadiary.jp/entry/2018/05/24/183108

 

しかし、『美杉村のはなし』では彼女は坂内具信の妻ではなく、北畠具教の内室となっています。

美杉村のはなし』は地元の伝承をまとめて物語風にした本です。

 

坂内具信の内室であったのに、北畠御所討死法名で具信の名が誤って具房となっていたために、伝えられていくうちに北畠具房、もしくは具教と混同されてしまったのかなぁ、と私は思います。

 

『美杉秘帖』に掲載されている鈴木家歴には

〝北畠落城ノ時坂内兵庫守国司九世三位宰相中将具房ハ坂内御所ヲ逃レ〟

 

と、坂内具信と北畠具房を混同した記述になっています。

 

鈴木具家の子、家次は北畠神社を創建したとされています。

 

平成五年に発行された『三重県神社誌』(三重県神社庁発行)に載っている由緒を見て見ましょう。↓

 

〝北畠氏の一族であった坂内兵庫守具政の後裔鈴木孫兵衛家次の創立にかかると伝えられ、当初は北畠八幡宮と称していた。(以下略)〟

 

編集後記によると、県下の各神社に調査用紙に所要事項を記入してもらったとのこと。つまり、平成五年頃までは北畠神社側も鈴木家次は坂内家の子孫であるという認識だったのでしょう。

坂内家は北畠の親族であり、北畠の末裔であることに変わりはありません。

 

★法事金をくれたという松坂之城主古田助成について

 

「北畠御所討死法名」の最後の方に

 

〝右具教卿三十三回忌為菩提当國松坂之城主古田助成殿ヨリ右為法事金ト銀子三百目ヲ家次ニ給ル也〟

 

とあるのですが、慶長十三年当時の松坂城主は古田重治なのです。

 

断家譜の古田氏系図も確認しましたが、助成という人物はいませんでした。

 

★佐々木承禎女具教室について

三瀬の変で北畠具教正室は死んでいませんが、「北畠御所討死法名」では死んだことになっています。

 

勢州軍記や勢陽雑記の天正十一年の記事に具教室は尼御前として登場しています。尼御前は信雄の家臣同士の喧嘩を仲裁しています。

(伊勢記では〝信雄卿の姑也〟と記している)

 

 

以上のことから私は「北畠御所討死法名」の内容は信憑性どうなんだ?と思っているわけです。

拙堂の言葉を借りれば「誠しからぬことも彼是打まざれど」だと思います。

 

よって千代御前が天正四年に亡くなったという話も信憑性はないと。やはり千代御前(信雄の妻)は生きていたということです。

 

 

 

北畠御所討死法名は代々伝わってきた話を江戸中期以降に書き留めたものではないかと…

 

誤解を招かないよう念のために言いますが、鈴木家が末裔であることを否定するものではありません。

 

あの井伊直政の先代でさえ、性別を含めよくわからないことだらけなのです。

戦乱の時代を経て伝えられたものがハッキリとしてないのは仕方ないことでしょう。

 

(北畠神社の由緒については八代国治の著書が真実に近いと私は思います。)

 

明智光秀と一緒に戦った北畠遺臣について

 

実は「北畠御所討死法名」には歴史好きにとって面白いことが書いてあります。

 

北畠の遺臣が明智光秀に味方して山崎合戦で討死したというのです。

 

その中に具教の首を奪い返した大宮多気丸や芝山小次郎秀時がいます。

 

斎藤拙堂の「伊勢国司記略」にも「多気記」を引用してこの話は紹介されています。

 

また多芸録にも明智光秀と一緒に戦ったという記述があります。

 

しかし、信憑性はどうなんでしょう?

 

あくまで伝承にとどめておいた方がいいかもしれませんね。

 

でも、めちゃくちゃ面白い話なので、大河ドラマでどうです?NHKさん!

 

 

 

 

 

伊勢国司記略に載っている「多気記」の大宮多気丸の話、載せておきますね。↓

 

其後鳥屋尾石見守竹原へ退き天正九年病死す。其時子息内蔵助へ謂て曰、汝主君の為に何卒信長を一太刀うらみよ、我死すとも汝が守神とならん。安保大内蔵と心を合せ、北畠家を取立よとありければ、内蔵助多気丸に出合、明智光秀家人風波新之丞は、多気丸伯母聟なるゆゑ、多気丸と心を合せ、新之丞へ便る。芝山次郎も一味也。天正十年春多気へ来る。

爰に芝山小平太多気落城の後伊賀へ退き、其後又多気に住す。是に依て大宮多気丸、鳥屋尾内蔵助、芝山小次郎、小平太が家へ忍び入、信長討取らんと相談す。

先味方をあつめ、風波新之丞と心を合、明智光秀を大将とし、織田家を亡すべしと、ニ月十九日多気を出立、四月五日に返り、千五百人一味連判す。四月十日多気を立、風波新之丞にたより、明智光秀を大将とする筈に定る。六月二日二万餘騎京都へ馳せ上り、信長父子討取悦事限なし

 

 

うーむ、どこまでが本当なんでしょうね。

拙堂は「誠しからぬ事も彼是打まじれど」と言ってるし、信じるも信じないも貴方次第ということで!

 

※「北畠氏学講座」というサイトでは大宮多気丸は山崎合戦に参加しておらず、親族が代わりに多気丸を名乗って参加し討死したとしていますが、私が知る限りそんな資料はないですね。

吉田さんの著書『鬼宿の海 九鬼嘉隆の生涯』『日本一水軍物語』に大悪才の弟が大悪才を名乗って信雄軍と戦い討死したという話が載っています。その時、大悪才は北畠具親(具教の弟)の子・具重を預かり養育していたとのこと。

吉田さんの著書に載ってるこの話をヒントに「北畠氏学講座」は創作したのでしょう。

 

 

 ★★追記★★2022.8.6

赤坂恒明氏「天正四年の『堂上次第』について─特に滅亡前夜の北畠一門に関する記載を中心に─」にて、法名帳の信憑性について言及があります。興味のある方はぜひ。

 

鳥屋尾石見守満栄が救出したのは誰?

鳥屋尾石見守満栄に関するネット情報について

 

 

・三瀬の変の時、田丸城から身重の北畠具房室鶴女を井上専正と共に救出し、北畠家臣の吉田大悪才の屋敷にかくまう

・具教の弟具親が挙兵するとそれに従って挙兵するも川俣の戦いで討死する

 

という話をネットでは見かけます。

(何かのゲームでもそんな話になってるみたいですね)

 

ネット上にある鳥屋尾石見守満栄のこの二つの話は何の資料を根拠に書かれているのでしょう?

Wikipediaの鳥屋尾満栄の情報も資料がよくわかりません。

 

 

まず、石見守が川俣谷の戦いで討死したという話について私が調べたことを書いていきます。↓

 

ネット上にある「石見守が川俣の戦いで討死した」という話の出処はどこにあるのか…

井上専正の記事でも紹介したこちらのサイトがネット上の初出ではないかと…

http://kitabatake.world.coocan.jp/kitabatake13.4.html

「北畠氏学講座」さんです。

Wikipedia北畠家という項目の外部リンクにこちらのサイトが貼られてて驚いた)

 

 

なんの資料を元に書かれているのでしょうか…?

どこかにそういう伝承があるのでしょうか?

 

勢州軍記などでは川俣谷の戦いで闘ったのは息子の右近将監だと書いてあります。

 

※『勢州軍記』を確認したら右近将監は「甥」とありました。私のミスです。申し訳ありません。(H30.9.1)

 

 

では石見守はどうなったのか。

勢州軍記や北畠物語、多芸録には書かれていませんが美杉村の資料館に石見守は戦に敗れた後、中国に移ったという史料が展示されています。

(私は去年の9月ごろ資料館に行って見たのですが詳しい内容をメモした紙を紛失しました( ; ; )

 

また鳥屋尾石見守の最期について、『伊勢国司記略』(斎藤拙堂著)には「多気記」(多気郷士鈴木長十郎持伝の書)を引用して

「其後鳥屋尾石見守竹原へ退き天正九年病死す」と書いてありました。

(ただし、「多気記」について拙堂は〝誠しからぬ事も彼是打まじれど〟と書いている)

 

どれが事実かはわかりませんが、川俣の戦いで石見守は討死していないでしょう。

 

 

それから、田丸城から具房室鶴女を救出し吉田家の屋敷にかくまったという話。

これも「北畠氏学講座」さんが初出でしょう。

勢州軍記や多芸録、北畠氏に関する研究書等には書かれていません。

 

「北畠氏学講座」では吉田大悪才の屋敷に鶴女をかくまい、そこで北畠昌教が生まれたとしています。

吉田大悪才の末裔である吉田兼明さんの名前を出して説得力を持たせています。

 

吉田さんの著書を図書館で読んできました。引用します。(『志摩海賊記』吉田正幸  昭和53年)※吉田さんの本名は正幸で、後に兼明をペンネームにしたようです。

 

「兼房。本姓藤原氏(卜部氏)にして、(中略)永禄年間織田信長、たびたび伊勢を攻めた折、兼房もたえず戦場に出て戦功数度あり。国司家御親族の内で信長へ内通密謀の人を害し奉り主君へ言上し、隠居を願えどもお許しなく、自ら入道して大悪才と号し出勤する。具教卿御隠居遊ばされ三瀬の御館へ移住に付き、兼房も供奉して長ヶ村に住す。

   その後三瀬の御屋形は信長表裏の謀略にて焼尽し具教卿を始め御公達も滅亡、天正四年十一月二十五日具教卿五十九才なり。御家人大半信長へ降参、大悪才は家来四人(伊藤十内、吉田小六郎、殿原喜太郎、岸庄蔵)を召し連れ知行所の山奥五十町の惣門という所に遁世、自ら一字石の法華を書写して、主君の御菩提を弔うこと三年、この間、百姓共夜所用を達す。」

(中略)

「兼房は文禄四年二月四日大往生を遂げ法名は本覚院殿桃原宝林居士と号す。」

 

これは吉田さん持伝の古文書を現代風に直して掲載したものだそうです。

 

吉田さんの著書にはどこにも鶴女をかくまったことも北畠昌教のことも書いてありません。

 

「北畠氏学講座」は何を根拠に言っているのでしょうか…

 

※「北畠氏学講座」では「桃ヶ原」という地名を出して「茂原」(吉田屋敷のあった場所)のことであろうとしていますが、吉田さんの著書にある大悪才の法名からとったのではないかと。茂原(読み・もはら)の旧名が「桃ヶ原」という話を私は聞いたことがない。

わざと“伝承”ぽく語ることで逆にリアリティを持たせる「北畠氏学講座」のテクニックなのだと思う。

 

 

実は鳥屋尾石見守が北畠遺児を救出した話は「北畠氏学講座」以外にもあります。

1997年出版の『美杉村のはなし 民話と歴史』(坂本幸 著)に載っています。

 

地元の伝承をまとめ、物語風にした本です。

 

引用します↓

 

織田の大軍を迎え撃つため、不眠不休で味方の軍の指揮にあたっていた城代の北畠左衛門尉政成どのは、

「間もなく敵の総攻撃が始まろう。今のうちに女や子どもは落ちのびよ」

と、内室方とそれぞれのお子方に武勇の家臣をつけて落ちて行かせた。

少辨御前と松千代丸君もあわただしい旅立ちになった。

今は亡き国司具教公に、

「近々戦が始まろう。万が一のことがあらば、姓名を変えてでも松千代丸を頼む。決して、北畠の血脈を絶やすまいぞ」

と、内々に耳打ちされていた少辨御前の兄家能は、

「我が所領、津留にお隠し申してくれ」

と、鳥谷尾石見守に二人を託した。

以下略

 

 

美杉村のはなし』では石見守が霧山城から具教の内室少辨御前と北畠の遺児を救い出した話になっています。

 

 

この霧山城から脱出した松千代丸は長じて母の姓鈴木具家を名乗り蒲生氏郷に仕えたと『美杉村のはなし』には載っています。

 

石見守が救出したのは田丸城の鶴女・昌教親子なのか

霧山城の少辨御前・鈴木具家親子なのか

 

どっちが本当?鳥屋尾石見守が二人いたことになってしまう

 

…私が思うに「北畠氏学講座」は鹿角の折戸氏の伝承、吉田さんの著書、そして『美杉村のはなし』に載っている話を上手に取り入れて、独自のストーリーを創作したのではないかと…

 

 

創作であったとしても、有馬さんが北畠の末裔であることを否定するものではありません。

 

有馬さんが末裔であるのは事実だとしても、「北畠氏学講座」の内容は創作の可能性があるということを私は言っています。

 

★吉田大悪才について

北畠家臣録」や「多芸録」には姓は藤原氏とあります。

吉田さんは著書『北畠暦紀』の中で吉田兼好の末裔だと書いていますが、兼好の末裔なら卜部氏ではないのかと…

先に紹介した『志摩海賊記』では

藤原氏(卜部氏)」というどっちつかずの表記をしていましたが…

 

吉田大悪才は兼好の末裔ではなく、後醍醐天皇の側近、吉田定房藤原氏)の末裔なのではないかと私は思うのですが…うーむ。

 

兼好のルーツは伊勢武者であるという説(『兼好法師』小川剛生著)もあるので…どうなんでしょう。

吉田さん本人が兼好の末裔だと書いておられるので、家に代々伝えられていたのは事実なのでしょう。

どちらにしろ凄い家系ですよね。

 

『志摩海賊記』によれば関ヶ原の時の伊勢中島の戦いに吉田氏(吉田悪才弥四郎)は出陣して九鬼氏を援けたそうです。その時の活躍は「山田中嶋軍記」に記されているそうです。

 

 

★霧山城から脱出したという北畠遺児について

 

美杉村のはなし』(1997)によれば霧山城から鳥屋尾石見守の手引きによって脱出したという鈴木具家(松千代丸)の息子が北畠八幡宮を創建した鈴木孫兵衛家次らしいです。

 

しかし、昭和35年発行の『美杉秘帖』では話がだいぶ違っています。

『美杉秘帖』掲載の「鈴木家歴(抜粋)」を一部引用します。↓

 

「北畠落城の時坂内兵庫守国司九世三位宰相中将具房ハ坂内御所ヲ逃レ、天正ノ乱ヲ奥ニ避ケ其ノ地ニ成長一子ヲ育テ、其ノ子賢ニ父ノ遺訓ヲ忘レズ具房卿ノ一男ニ生本国ノ一志◾️◾️◾️に住鈴木孫兵衛尉家次ト呼是即晴具四代ナリ(以下略)」

 

半世紀も経ってないうちに伝承の内容がずいぶん変わっています。

美杉秘帖に掲載されている話は

・霧山城ではなく坂内御所を脱出。

・脱出したのは具家(松千代丸)ではない

・坂内具義なのか北畠具房なのかよくわからない記述になっている。

・鳥屋尾石見守が救出した話は記述なし。

 

そもそも〝伝承〟というのはアヤフヤなものなので、気にすることでもないかもしれませんが…。

 

伊勢国司記略』に「多気記」を引用して

 

「政成の子息亀千代丸十二歳なるを家人早川傳五郎つれて立のき、備後國福山へ立退く。其後坂内子孫左衛門尉具家を以て尋ねられしが、薩摩國へ行きしとかや」

と書いてありました。

 

また『三重 匡盗り物語総集編』(昭和49年)P309に鈴木氏から編者への手紙の内容が紹介されており

具房の内室は、ここで病死。その子は成長して坂内左衛門尉具家となる。その子が鈴木孫兵衛家次である。

 と紹介されています。多気記の登場人物と同一人物なのでしょうか?

(『三重・国盗り物語』で紹介されている具家・家次親子の話もまた変容しているのですが省きます。興味がある方は図書館へgo)

 

 

美杉村のはなし』にある伝承は北畠政成の子息の話とゴッチャになって徐々に形成されていったのではないかと私は思うのです。

 

伝承とか言い伝えはアヤフヤなもので時と共に変容していくものですから。

 

※誤解を招かないように念のため言いますが、鈴木家が北畠の末裔であることを否定するものではありません。

北畠の末裔だという伝承が代々伝えられているのは事実なのでしょう。

 

★霧山城城代だったという北畠政成について

 

北畠政成という人物について、斎藤拙堂は以下のように考察しています↓

 

「按ずるに、此多気記は多気の瀧廣と云所の郷士鈴木長十郎が家に持傳へたる舊記の由にて、篠田賢治借り出して余に示しぬ。其内には誠しからぬ事も彼是打まじれど、舊傳の事もまヽあるべく、政成を始め多気にてありし事、此記の外に初見なけれは、原書を節略してこゝにしるし置く。且は政成と云人此書及び法名帳の外に見えず。此人を政具の弟、政義の孫、政勝の子なりとあれど、政義と云人系圖等に見えず。政勝は澤氏文書、阿坂浄眼寺文書に文明年中の下知状あり。材親國司幼年の頃後見したる如く見ゆ。此人文明年中の人なれば、天正四年迄は百年程なり。政成其子といはんは年代合はず。政勝の次今一代あるべし。歴名土代に北畠政能天文二十三年八月叙爵、永禄三年六月八日宮内大輔とあり。此人政成の父にてもあらんか。」

 

 

大雑把に現代風に言うと↓

 

〝鈴木長十郎の家にあった「多気記」は本当かわからないことも書いてあるけど、政成や多気の出来事を書いてある書が他にないから「伊勢国司略記」に載せといたよ。

政成という人物は「多気記」と「法名帳」以外に名が見当たらないよ。

政具の弟、政義の孫、政勝の子だって多気記には書いてあるけど、系図にないし年代が合わないよ。

北畠政能て人がいたけど、この人が政成のパパじゃないかな?〟

みたいな感じかな?

法名帳」とは「北畠御所討死法名」のことでしょうか?

だとしたら、「北畠御所討死法名」の最後の方に書かれていた「家次五代孫上多気村  北畠長十郎」と多気記の持ち主「鈴木長十郎」は同一人物ということ?

 

※最近の研究では政勝と北畠政郷が同一人物であることが明らかにされています。

とすると、政成が「政勝=政郷」の息子だというのは世代的に考えてますます疑問ですね;うーん。

 

Wikipediaの北畠政成の項目について

政成の妹・鶴女は北畠具房の室であるとWikipediaには書いてあるんですが、はて?何の資料にあるのか…?

私が知る限り資料がない…

うーむ、何か資料があるのだろうか?

 

小説『忍者烈伝ノ乱 天ノ巻』(稲葉博一 著)p47に

 

〝政成の妹である「鶴女」が、中の御所である北畠具房の室であった。〟

 

という記述があります。これは稲葉さんによるフィクション創作なのか、何か資料に基づくものなのか…?

 

…政成の妹だという伝承があるのでしょうか?

 

そういえば、具房の室って系図にないですね。「北畠氏学講座」では具房の正室は鶴女ということになっていますが。

 

 

 

しかし、鶴女が政成の妹だという資料はどこにあるんだ…?

 

追記

鶴女が政成の妹だっていうのも「北畠氏学講座」さんが発端ぽいですね。

 

鶴女は北畠政勝の娘だと北畠氏学講座では言ってます。

でも、拙堂も言ってるように政勝は年代が合わないんです。

鶴女が政勝の娘だとするとかなり高齢の妊婦さんですよ…

 

それと、鹿角の伝承・北畠昌教の母の名前は「鶴女」と伝わってるんでしょうか?

私はうっかり鹿角に「鶴女」と伝わってると本文に書きましたが、もう一度見直したら(ネットでわかる範囲内)単に「母」とされていて「鶴女」ではないです。

(本文は訂正しておきました)

 

昌教母・鶴女の名付け親は北畠氏学講座さんじゃないですか?

 

美杉村のはなし』の小辨御前が〝津留〟に逃げたから、そこから名付けたのでは?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

井上専正と北畠昌教※追記あり

  • 井上専正

 

でネット検索すると出てくる情報を簡略にまとめると、

 

  • 井上専正は北畠家臣で、織田信長との戦いに多数出陣し戦功をあげる。
  • 三瀬の変のとき、北畠具房の妻、鶴女を鳥屋尾石見守と一緒に田丸城から救出し、同じく家臣である吉田家にかくまう。
  • この時、鶴女は身籠っており吉田家で北畠昌教を出産。
  • その後、織田側から逃れるために井上専正は昌教を連れて本願寺を頼り顕如に弟子入りする。
  • 後に秋田の鹿角に専正寺を開く。
  • そして昌教を鹿角に呼び寄せる。
  • 昌教は津軽為信の客分になる。
  • 専正の娘が昌教の妻になる。

 

 

といったストーリーが語られていますが、何の資料を根拠に書いているのかわかりません。

どうも、ネット上の初出は先に書いた北畠氏について細かく書いているサイト「日本の歴史学講座」「北畠氏学講座」のようです。(私の調べた限りの見解です)

http://kitabatake.world.coocan.jp/kitabatake9.html

 

このサイトでは昌教の次男が折戸を名乗り、孫が有馬を名乗ったと主張しています。

 

 

織田信長との戦いに多数出陣し戦功をあげているのなら、勢州軍記などの史書や北畠氏に関する研究書に井上専正の名が出てきてもよさそうなのですが、出てきません。

何の資料が根拠なのか…

調べてみました↓

 

 

秋田県広報協会が1970年に発行した雑誌「あきた」通巻103号に

専正寺の縁起に関する文章が載っています。

f:id:sukoyaka1868:20230807204411j:image

専正寺に伝わる由緒巻物は重要文化財で、正徳年間にしたためられたものらしく、その内容が書かれていましたので一部引用します。↓

 

「当時ノ開基俗性ハ其昔信州高井群ノ城主隠岐源満実ノ末孫也(八万石)

井上味兵衛専正ト号ス

 

父ハ左衛門尉専忠トテ勢州国司北畠大納言具教卿之幕下二属シ武門繁栄ス

然ル二織田信長ノ謀略ニヨリ北畠ノ君臣乱レ、主ハ臣ヲ捨テ威勢強キ二随テ君臣共二信ヲ捨テ礼ヲ捨テ大乱ノ世トナリヌ

 

凡そ三界無安■如火宅ノ説ヲ今二見ルガ如シ、是ノ故二国司ノ家臣モ大二乱レ、家臣ノ多クハ信長ノ幕下トナリ、具教卿モ臣ノ為二空シク生害シ玉フ」と書かれている。

主君を討たれた幕下左衛門尉専忠は乱軍の中に討死、時に天正四年十一月二十五日。

  専忠の一子富之助専正は幼少の身で、母と共に難を免れ伊勢の国中西の里に縁者を慕って居住。

  母は富之助の成長を待ったが病を得て中西の里に空く終る。

  富之助は成長するにつれ上求菩提の志深く、父母の恩を報ずるには、出家の功徳にまさるものなしと決意。

 諸国を巡回して有縁の知識を尋ね、要法を聴き歩いたが、諸国大乱の折柄満足すべき師にめぐり逢い兼ねたのである。」

 

〜引用を終わります。

 

三瀬の変のとき、井上専正は幼少の身だったというのです。

 

織田信長との戦いに多数出陣、具房室を救出した」というネット情報はなんなのでしょう?

 

由緒巻物によれば、三瀬の変の後、専正少年は伊勢の中西に母と暮らし、のちに母は病死。成長した専正は父母の恩に報いるため出家することを決意し、諸国を巡回します。

 そして京の本願寺顕如に出会ったようです。

   教順という法名をもらい、後に奥州花輪の里に下りて、天正17年、専正寺を建立したとのことです。

 (ちなみに北畠家臣録」に「井上丹波守」という名があるので、専正の父か祖父なのではないかと思います。 )

 

この話に「北畠昌教」や「鳥屋尾石見守」の名は出てきません。本願寺に入ったときにも「昌教」を連れて行ったということも書いてありません。

 有馬氏のことも載っていませんでした。ネット上にある専正と昌教にまつわるエピソードは一体なんなんでしょうね。

 

なぜネット上では織田信長と戦ったり、具房室を救出したストーリーが確定した史実であるかのような情報が出回っているのか…

 

ネットの影響力はすさまじい 

 

 

このブログを読んで、興味をもたれた秋田県在住の方、または国会図書館近くにお住まいの方、『秋田県史』『鹿角市史』『南部叢書』などの資料を調べてみてください。

 

 

経済的にも時間的にも私はこれ以上調べることができません涙。

 

できたら、コメント欄を通じて私に教えてください。あつかましくてごめんなさい。

 

 

追記

昭和54年の「広報 かづの」146号をネット上で見つけました。

f:id:sukoyaka1868:20230807204226j:image

その中に専正寺と北畠昌教に関する記事がありました。

 

この記事では、現在ネット上で流れているように専正が鹿角に北畠昌教を呼び寄せたという話になっています。

しかし、昌教が本願寺の庇護を受けたことは書いてありますが、専正が本願寺に昌教を連れて行ったという話ではないようです。

 

また、専正が織田信長相手に戦ったという話と田丸城から具房室を救出した話は書いていません。昌教が津軽の客分になったことも書いていません。

ちなみに、有馬氏のことも書かれていません。

 

 

追記

1998年の「広報  かづの」606号に北畠昌教の墓や居住していたと伝わる館に関する記事がありました。

f:id:sukoyaka1868:20230807204038j:image

この記事は昌教についてかなり詳しく書かれています。

 

が、この記事にも井上専正が織田信長相手に戦ったという話と田丸城から具房室を救出した話は書かれていません。昌教が津軽の客分になった話もありません。有馬氏のことも出てきません。

 

 

これまで 調べてみてわかったことを私なりにまとめると、

 

・秋田の鹿角に北畠の遺児が移り住んだという〝伝承〟があったのは事実。

そして北畠の遺児の子孫は折戸を代々名乗っている。

・伊勢出身の井上専正がなんらかの形で関わっていた可能性は大いにある

・しかし、井上専正が田丸城から北畠昌教の母を救出した話と織田信長との戦に出陣した話はネット上の創作…かも?

・専正の娘が昌教の妻になった話はどこ…?

・有馬氏の話もどこ…?

・北畠昌教が津軽為信の客分になったという話もソースがよくわからない… 

ということです。

 

私が思うに、北畠氏学講座というサイトが鹿角の伝承と三重県美杉村(伊勢北畠の本拠地)の伝承をミックスした「お話」を作り、それがネット上で広まったというのが妥当なところではないでしょうか…

 

 

またまた追記

 

井上専正と北畠昌教について書いてあるページを見つけました。

 

http://www2u.biglobe.ne.jp/~gln/88/8871/88716101frame.htm

 

参考  鹿角市発行「陸中の国鹿角の伝説」

 

と書いてあります。それを読みたい…それの参考文献知りたい…参考文献の参考文献を知りたい

 

リンク先のページにも専正が織田信長と戦った話と田丸城から具房室を救出した話は書いてないです。有馬氏の話もありません。

田丸城から救出したのではなく、後に都にいた昌教を連れてきたという話になっています。

 

 

やはりネット上にある専正が織田信長と戦った話と田丸城から救出した話は何の資料・史料を根拠に書かれているのか不明です。

 

 

 

たぶん最後の追記 H30.4.24

図書館で、美杉村の北畠神社の宮司だった宮崎有祥さんの著書(『南朝と伊勢國司』昭和43年)を読んできました。北畠氏の末裔に関することが書かれている本です。

「直系の子孫があるとは考えられませんが」と前置きしつつ、末裔を名乗る方々に対して最大限の敬意をはらった文章です。

 

著者の宮崎さんは北畠の末裔の方に会うために東北に行ったのです。

著書の一部を引用します。↓

 

〝この名族の血統を伝える人々が意外に多いことに驚かされます。特に東北地方と北畠氏との因縁は浅からず、彼地へ行って、それらの旧家を訪ね、家系を調べて、子孫として由緒ある家門に生を享けたことを自覚し、心密かに誇りとせられているのを見て(以下略)〟

 

 

 

そしてこの本には

秋田に移り住んだ北畠昌教の末裔の折戸さん宮崎さん、それから専正寺の住職の未亡人、先々住未亡人の四人が一緒に写った写真が掲載されていました。

専正寺先住未亡人と折戸さんが一緒に写っているということは…専正寺にも北畠昌教に関する伝承があったってことかな?

本文では専正寺について言及がないので、そこの部分はよくわからないです。

ところで、写真に写っていた北畠昌教の末裔・折戸三郎さん。この方の息子さん、第二次世界大戦で出征し、ルソン島で亡くなったそうです。

一人息子だったそうです…

ペン書きで「屍をば敵に渡さじ多気に行く」

と遺書を残して、割腹したそうです。

 

息子さんは先祖のゆかりの地である多気(現美杉町)に一度は行ってみたいと思っていたのでしょう。

 

 

興味本位で井上専正と北畠昌教について調べ始めたのですが、まさかこんな悲しい話を知ることになるとは…

 

息子さんの魂が安らかでありますように。

 

 

それから、もう一つ、この本には東北と北畠に関わる興味深い話が書かれていました。

 

昭和三十四年に農林大臣三浦一雄さんが北畠神社を参拝したそうです。

農林大臣の参拝に宮崎さんは驚き、訳を聞くと三浦さんは

「私の郷里は青森ですが、何代か前に三浦一族を率いる豪族となって津軽藩に入っていますが、元はといえば伊勢北畠氏から出ています。私は昔から、一度はぜひ祖先発祥の地である多気の地を訪れて祖霊を拝したいと念願していましたが、今日図らずもそれを果たしたので、こんな嬉しいことはありません。」

と、答えたそうです。

 

三浦さんはその二、三年後に亡くなってしまい、詳しい話を聞く機会を失ってしまったとのこと。

 

東北と三重県はすごく離れているけれど、三浦氏のご先祖が移り住んだということは、伊勢北畠氏と浪岡北畠氏の交流が続いていたということ?

 

浪岡北畠氏が滅んだ後も、一族や家臣の末裔が東北に暮らしていたかもしれないし、つながりはあった…?

 

北畠昌教が東北に移り住んだという伝承もそういう縁があったのかもしれませんね。

※ただし、昌教が「津軽の客分になった」という話は真偽不明です。

 

 

ちなみに、宮崎さんの著書にも井上専正が織田信長と戦った話と田丸城から昌教母を救出した話は載ってませんでした…。

有馬北畠氏についてもやはり載っていませんでした。

 

 

 

追記 H30.5.13

 

北畠家臣帳だけでなく多芸録にも「井上丹波守」の名がありました。

 

「井上丹波

姓源氏大和宇陀郡人後移小倭木造従騎」

 

井上一族は元は大和宇陀郡の人ということは

信濃井上氏は信濃から大和に移った後に伊勢に移ったのでしょうか?

(北畠は大和宇陀郡にも影響力ありました)

 

また『多芸志略 三巻』(梅原三千)によると

 

「井上丹羽守

源氏射和住田丸寄騎」

 

とありました。これは昭和三年に斎藤拙堂所蔵の分限帳を写したものです。

行書体で書かれているものなので、私が読み間違えてる部分もあるかもしれません。あしからず。

 

それと少し話がそれるかもしれませが、『多気史蹟』(梅原三千)に井上円了が多芸(多気)を訪れたという話が載っていました。

なぜあの井上円了が?(まさか妖怪退治に⁈)

 

哲学堂創設のために諸国を巡講していて大正五年二月に多気の小学校で講演したそうです。

 

気になったのでググったら井上円了信濃井上氏の子孫だという説を紹介する論文を見つけました。

井上円了とその家族 生家の慈光寺と栄光寺を含めて」

三浦節夫著

井上円了センター年報15号

 

信濃井上氏の出自だからといって

井上円了の家系が伊勢北畠と何か関係は…まぁ関係ないでしょう。